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乳房の役割と言葉の変遷を大マジメに考える 「母の印」から「エロス」へ【呉智英】

「日本語ブーム」の今、見落とされてはいけない「日本語の真実」


乳房への意識や表現が性的なものばかりに傾いてきたことで、言葉遣いにもその変化が現れている。かつては母性を連想させる「ちち」と呼ばれていた乳房が、今や「ボイン」「巨乳」「爆乳」といった肉体的な言葉で表現されるようになった。呉智英 著『言葉の常備薬(ベスト新書) から、乳房をめぐる言葉の変遷とその役割を捉え直す。


写真:PIXTA

 

◾️乳房を性的な視線で見る言葉の変化

 

 代用漢字というものがある。戦後の漢字改革という名の漢字制限によって使えない漢字が出てきた。そのために読み方が同じ別の漢字を使うことになった。これが代用漢字である。

 漢字は表意文字(表語文字とも言う)である。読み方が同じでも意味はそれぞれ違う。代用漢字ではなるべく意味も似た漢字を選んでいるが、それでもおかしなものがある。

 199833日の朝日新聞の法律相談欄は、新手の高額商品勧誘販売の話だ。妖艶な美人勧誘員が若い男性を狙ってショッピングクラブへの入会をすすめるのだ。その記事に、こうある。「入会申込書に署名、印鑑がわりに母印を押した」

 拇印とは拇指(親指)を印鑑がわりにすることである。若い男性はこの拇印を押したのだ。しかし、記事では「母印」となっている。グラマーな美人がボインを押しつけて入会を迫ったのだろうか。どうも驚いた代用漢字である。

 ところで、女性の豊満な乳房を「ボイン」と表現することは、1970年頃の俗語から始まった。しかし、今では徐々に死語になりつつある。代わって「巨乳」だの「爆乳」だの、果ては「超乳」なんてのまで、雑誌のグラビアページを彩るようになった。巨乳はともかく、乳が爆発しちゃ困るし、超乳じゃ乳を超えるのだから別物になってしまう。なんだかわけがわからない。

 さて、「ボイン」から「巨乳」まで、このどれもが、乳房を性愛の対象として見た言葉である。しかし、本来、乳房は赤ん坊を養い育てるための器官だ。それが、この数十年、乳房は性愛の対象として強調されるようになり、言葉の変遷にもこのことが反映しているわけである。

 「ちち」は、「ち」を重ねた言い方である。この「ち」は、「血」と同原、また「命」の「ち」でもある。つまり生命力を意味している。人間の体内で生命力を保持するのが血、赤ん坊に生命力を授けるのが乳である。1970年に流行した落語家月亭可朝の歌のように、おっぱいは赤ちゃんのためのものなのだ。

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呉智英

くれ ともふさ/ごちえい

評論家

評論家。一九四六年生まれ。愛知県出身。早稲田大法学部卒業。評論の対象は、社会、文化、言葉、マンガなど。日本マンガ学会発足時から十四年間理事を務めた(そのうち会長を四期)。東京理科大学、愛知県立大学などで非常勤講師を務めた。『封建主義 その論理と情熱』『読書家の新技術』『大衆食堂の人々』『現代マンガの全体像』『マンガ狂につける薬』『危険な思想家』『犬儒派だもの』『現代人の論語』『吉本隆明という共同幻想』『つぎはぎ仏教入門』『真実の名古屋論』『日本衆愚社会』『バカに唾をかけろ』など著書多数。加藤博子との共著『死と向き合う言葉』(小社刊)がある。「呉智英 言葉の診察室」シリーズ全四冊(①『言葉につける薬』、②『ロゴスの名はロゴス』、③『言葉の常備薬』、④『言葉の煎じ薬』)がベスト新書より【増補新版】で刊行。

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