あなたはどのように信じますか?【森博嗣】新連載「日常のフローチャート」第23回
森博嗣 新連載エッセィ「日常のフローチャート Daily Flowchart」連載第23回
【「信じる」とは「疑わない」という意味か】
信じるというのは、どういう状態なのだろうか? 説明できる人はいるだろうか?
期待する、信頼する、正しいと判断する、信仰する、などいろいろ思いつく別の言葉はあるものの、具体的な状況はかなり広範囲に及んでいるようだ。
英語だとbelieveだが、この言葉でよく耳にするのは、「believe me」と相手に繰り返す場面で、これは「私を信じなさい」と直訳されるかもしれないが、それよりも、「大丈夫」「本当だよ」「嘘じゃない」「安心して」「私についてこい」と訳した方がそれっぽい。
日本語でも同じで、これらはつまり「疑うな」と訳せば、ほぼ意味の全域をカバーできる。ようするに、「信じる」とは、「疑わない」ことなのである。
そこで我が身を振り返ってみると、僕はなにかを信じたことがあるだろうか、としばし(5秒間ほど)考えてしまった。どうもこれといって思い当たるものがない。信じることに不慣れというか、日常的にそういったことをしないように思える。
もちろん、こんな工作ではこの道具が絶大な効果を発揮する、という知識は持っている。この場合、「僕はこのペンチを信じている」といえなくもない。でも、積極的に他者に話したりはしないだろう。接着剤ではセメンダインを多用する方だが、「セメンダインを信じている」とまではいかない。エポキシ接着剤が必要な場面もある。ようは、適材適所というだけのことだ。過去の経験から、その材料や工具は期待できる、とのデータを持っているにすぎない。これは「信じる」とは少し違う。統計的、確率的に有利だという意味でしかない。
このように考えてみると、僕はなにも信じていない感じがする。はっきりと断定はできないけれど、これまでなにかを信じた体験がない。ということは、裏を返せば、僕はなにに対しても疑ってかかる性格なのだ。疑うから信じることはできないのである。
物理法則だって、信じているわけではない。ただ、今はそれが基本としてある、というだけのことだ。ニュートン力学は、地球上の常識的な範囲、つまり自分がこの目で見たり、この手で動かしたり、身の回りで観測できるような範囲でなら成立している。それ以外では成立しないことが、最近になって実際に観測されている。
したがって、「神を信じますか?」と問われたら、神どうこう以前に、僕は「そもそも、信じることができません」と答えるしかない。信じるという行為ができない人間らしい。どうして「らしい」としたのかというと、「信じることができない人間だ」ということも信じられず、半ば疑ったままで書いたからだ。
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〈無駄だ、贅沢だ、というのなら、生きていること自体が無駄で贅沢な状況といえるだろう。人間は何故生きているのか、と問われれば、僕は「生きるのが趣味です」と答えるのが適切だと考えている。趣味は無駄で贅沢なものなのだから、辻褄が合っている。〉(第5回「五月が一番夏らしい季節」より)。