暴走専務・諏訪魔のプロレス哲学と原点回帰 いつまでも「真っ直ぐ」「がむしゃら」に生きる【篁五郎】
◾️「思ったよりも成長してねえな」の一言で路線変更
2004年に馳浩(現・石川県知事)のスカウトで全日本プロレスに入団。レスリングで実績を持つ諏訪魔のプロレス挑戦はプロレスマスコミに大きく取り上げられた。全日本プロレスでは秋山準(現DDTプロレス)以来、大物ルーキー入団となり、プロレス界は明るい話題に包まれていた。
「入門したときのコーチはカズ・ハヤシ(引退)さんだったんです。肉体的に追い込まれるのは承知の上で入ってきたんで、何とかなりましたけど受け身は衝撃的でしたね。だって格闘技で受け身を取るってないじゃないですか。人間が後ろに倒れる時って、怪我する時とか、危ない時ですよね。そこで肘と手ついたりとか変な倒れ方をしちゃう。そっちの方が危ないから受け身を取るように練習するんですけど、柔道の受け身とも違うから慣れるまで大変でした」
今までとは違う練習に苦労しながらも入門して半年後の2004年10月、馳浩戦で本名の諏訪間幸平としてデビューした。全日本プロレス側の期待も大きく、ジャンボ鶴田や田上明、小橋建太といったトップレスラーが経験した「試練の7番勝負」(鶴田は10番勝負)が課せられた。会見に同席した取締役(当時)の渕正信(※1)も「楽しみ」と語るほど。
初戦は皇帝戦士と呼ばれたベイダーと対戦。204kgもあるベイダーをジャーマンスープレックスでぶん投げるという凄さを見せつけ、早くも将来性の高さを感じさせる。師匠でもある武藤敬司とタッグを組んで世界タッグへ挑戦するほど可能性を感じさせる存在でもあった。
その後も、トップどころとの対戦が続く試練の7番勝負の5番目で終わってしまう。なぜなら諏訪間幸平は当時全日本プロレスでヒールとして暴れまわっていたユニット「VOODOO-MURDERS(ブードゥー–マーダーズ)」へ加入を果たし、ヒールへと転向したからだ。リングネームも本名から「諏訪魔」と変えて、何でもありの軍団で暴れに暴れまわる。この時から諏訪魔についてきた異名は「暴走戦士」である。
「あの時にブードゥーに入ったのは、何としても爪痕を残したいって気持ちが強かったんです。当時は武藤(敬司)さん、小島聡(※2)さんとかがトップにいたんですけど、早く上になりたいって思ってましたね。焦ってはなかったけど『ワープしたい』って感じですかね」
当時の諏訪魔は26歳。高校大学を卒業してすぐに入門しているレスラーは、ほとんどが若手レスラーを卒業してトップへ食い込むために切磋琢磨している頃だ。しかし社会人を経て入門した諏訪魔はまだルーキーである。同期入門のレスラーも10代、20代前半ばかりだったのを見れば「早くトップへ」という思いが芽生えるのも当然だろう。そのためにヒールを選び、全日本プロレスのトップレスラーと対戦する道を進むことで「ワープ」を実現させる。
「でも、ヒールになろうと思ったのはトップレスラーになりたいってだけじゃないんです。あれは入門して1年くらいかな。武藤さんから『成長止まってんな』みたいな感じのことを言われたんですよ。こっちは毎日毎日一生懸命試合しているのに『なんでそんなこと言うんだろう』と考えて、余計に早くトップに行きたいって思ったんですよ」
当時の諏訪魔はファンやプロレスマスコミからも「次世代の新星」としてみなされ、期待も集めていた。全日本プロレスの社長だった武藤も同じ思いであっただろう。その武藤から『成長止まっているな』と言われれば、考えるのは当たり前である。
「あの時はわからなかったけど、今ならわかります」
そう語る諏訪魔にヒール転向して良かったかどうか聞いてみた。
「良かったですよ。プロレスの見方が全部変わりました。ヒールって お客さんのことを手玉に取るし、緻密に計算されたプロレスをするんですよ。横で見てて『すげえな』と思いながらやっていて、色々と学びましたね。今でも自分の土台になっています。だからブードゥーを抜けてもリングネームは『諏訪魔』のまんまなんです」
※1 渕正信:1974年に全日本プロレスへ入門。全日本プロレスが分裂しても残り続けた団体生え抜きの人物。2024年にレスラー生活50周年を迎えた
※2 小島聡:1991年にサラリーマン生活を経て新日本プロレスへ入門。2002年に全日本プロレスへ移籍し、三冠ヘビー級王座とIWGPヘビーを同時に保持した唯一のレスラーである