ジェネラリストは存在しない? 【森博嗣】新連載「日常のフローチャート」第25回
森博嗣 新連載エッセィ「日常のフローチャート Daily Flowchart」連載第25回
【スペシャルなキャラクタ】
個人の性格や世界観にも、しばらくジェネラルなものが価値を有していた。偏りのない広い知識を持ち、バランスが良いこと、なにに対しても適度に理解があること、が有利に働いた。しかし、逆に見れば、これは「個性がない人」である。個性、キャラクタとは、いうなれば、平均からの偏りのことだ。かけがえのない人と認識され、集団の中で際立っている、つまりキャラが立っているほど、他者から注目される。
ジェネラルな個性は、多数から認められやすいけれど、個人的に愛されにくい。スペシャルな個性が、個人的な愛情の対象にもなりやすい。たとえば、特定の個人に入れ込む「推し」は、スペシャルな対象を見つけようとする。ただ、需要を確保するためには、できるだけジェネラルにしたい。だから、近年のアイドルは大勢でグループを組み、しかもその人数がしだいに増加している。
リーダは、ジェネラルでなければならないのだろうか? 政治家や企業のトップはジェネラリストなのか? 否、そうではない。政治家も組織のトップも、明らかにスペシャリストだ。だからこそ、あんなに大勢で会議をする。一人だったら独裁になるからだ。独裁を否定したのが民主主義であり、王政からの脱却は、ジェネラルな人格など存在しないと認めることだった。
人間というのは、そういうもの、つまり、誰もが「個」であり、スペシャリストなのである。今、どこかでオリンピックが開催されているようだが、あらゆる競技に勝てる人間が存在しないことが、その証左といえる。総合的に最も優れた人間は誰か、というコンテストが成り立たないのも、ジェネラリストが存在しないことを物語っている。人類が地球上で繁栄できたのは、個人のスペシャルな能力によって分業する仕組みができたからだ。みんなが同じように平均的でバランスの良い能力を持っていたら、人類社会はこれほど進歩しなかっただろう。
「変わった人」というのは、いつの時代も目立っていた。伝説となって語られ、昔から変人、奇人がいたことがわかる。そんななかには、社会にとって有益な発想をする人がいた。誰も見向きをしなかったものに注目し、あるいは拘って、とことん考え抜いた人もいたはずだ。そんなキャラが立った人格は、どの世でも目立っただろう。
人は、他者のキャラを気に入ったり、嫌ったりする。嫌えば離れるだけだが、気に入って接近し、親しくなる他者が必ずいたはず。それぞれが違っているからこそ、自分にないものを発見し、あるときは惹かれることにもなる。誰もが同じだったら、他者への興味は薄れ、べつに自分一人でも良いかな、と思ってしまうだろう。
現代人は、あまりにも「みんなと同じでありたい」と思いすぎていないだろうか? 誰もが平均的な人になろうとしていないだろうか? 自分と同じだから友達になれると思い込んでいないだろうか? そこが、少しだけ気になるところだ。
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世の中はますます騒々しく、人々はいっそう浮き足立ってきた・・・そんなやかましい時代を、静かに生きるにはどうすればいいのか? 人生を幸せに生きるとはどういうことか?
森博嗣先生が自身の日常を観察し、思索しつづけた極上のエッセィ。「書くこと・作ること・生きること」の本質を綴り、不可解な時代を見極める智恵を指南。他者と競わず戦わず、孤独と自由を楽しむヒントに溢れた書です。
〈無駄だ、贅沢だ、というのなら、生きていること自体が無駄で贅沢な状況といえるだろう。人間は何故生きているのか、と問われれば、僕は「生きるのが趣味です」と答えるのが適切だと考えている。趣味は無駄で贅沢なものなのだから、辻褄が合っている。〉(第5回「五月が一番夏らしい季節」より)。