公私ともに行動派の徳川家康には、ナイーブな一面もあった!
歴史上の人物を四柱推命で鑑定! 第1回
■「四柱推命」とは?
四柱推命とは、古代中国で生まれた「過去、現在、未来」を予見する運命学のひとつで、陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)をもとに、人が生まれながらにして持っている性格、能力、素質を理解し、その人の努力や経験で変わる後天的な運命までも予測することができる。
具体的には、生まれた日(生まれた年・月・日・時間)を4つの柱「年柱(ねんちゅう)」「月柱(げっちゅう)」「日柱(にっちゅう)」「時柱(じちゅう)」に見立て、命式表(めいしきひょう)を作成し占っていく。しかし、実際に占う場合は生まれた時間がわからなくても成立するため、生まれた年、月、日があれば宿命や運命を推測することができる。
ここでは、「国史大辞典」に記載されている生年月日を、「和洋暦換算事典」を用いてグレゴリオ暦に換算し鑑定する。
■今回鑑定する人物は……
徳川 家康(1542-1616)
生年月日:天文11年12月26日(和暦)
西暦1543年2月10日(グレゴリオ暦)
それでは、上の命式表を見ながら鑑定していく。鑑定する上で、最も重要である日柱の干支(かんし)は「壬寅」(みずのえとら)とあり、これは「春」の「海」を表す。春の海のように、穏やかで器の広い人物であると考えられる。同様に「壬寅」を日柱に持つ芸能人として、俳優の高倉健がいる。また、「壬(みずのえ)」=「+水」であるが、水はどんなものにも形を変えることができるため、「壬」の人は高い柔軟性を持つ。家康は、人質として織田家、今川家で過ごした幼少期、その後の織田信長、豊臣秀吉の配下にあった時期も、自分の置かれた立場を十分にわきまえ、冷静に対応したのだろう。
次に、通変星(つうへんせい)・蔵干通変星(ぞうかんつうへんせい)・十二運星(じゅうにうんせい)を用いて性格を見ていく。ここでポイントとなる主星(しゅせい)(月柱の蔵干通変星で仕事運を表す)、自星(じせい)(日柱の蔵干通変星で自身の本質を表す)ともに「偏官(へんかん)」とあり、攻撃力、行動力が非常に強く、何かを思い立ったらすぐに行動するタイプであったことが予想される。主星、自星ともに同じ星であるため、性格に裏表はなく、仕事(公的な場)でもプライベートでも、常に行動派、いわゆるガツガツタイプであったと考えられる。また、強い星「劫財(ごうざい)」を持っており、欲しいものはどんな手を使っても手に入れたい野心家であったことも読み取れる。若年期の不遇な経験から、その本質はなかなか外に出せなかったかもしれないが、強い忍耐力にまとったベールの裏で闘争心を培っていたのだろうか?
一方で家康は「傷官(しょうかん)」を持っており、傷つきやすくナイーブな面もあったことが読み取れる。十二運星には「死(し)」を併せ持っていて、そのナイーブさから精神世界に興味を持ち、神社を大切にしたことが予想される。また、「傷官」に合わせて、十二運星に、「病(びょう)」を2つ持っていることからも、芸術、芸能に深い興味を持っていたことが予想される。多くの歌を残したほか、茶の湯・三千家を保護しており、現在茶道が残っているのは、家康のおかげと言っても過言ではない。また、「食神」を持っている。「食神」はいわゆるグルメ。食に相当なこだわりを持っていたのだろう。会食を大切にし、関ヶ原の合戦前には大名を味方に組み入れるために、饗応(きょうおう)を行っていたという史実も残っている。
「人の一生は、重荷を負うて遠き道をゆくがごとし。急ぐべからず」
これは、家康の名言として伝わる。若年期の不遇な境遇の中、内に秘めた闘争心をひた隠して天下を手に入れた家康が、研ぎ澄まされた感性を活かして語った言葉なのだろう。