21世紀の東京はただただとても土が堅かった――。
“プロレタリア芸人”が綴る、東京悲観記。
現在観測 第42回
本坊元児と申します。東京には逃げて参りました。
お笑いコンビ、ソラシドの本坊元児と申します。約十年大阪で活動した後、六年前に東京に進出してきました。関西芸人が東京進出するのは、関西で売れた後に全国に活躍の場を求め東京へというのが通例です。ソラシドのように大阪でも知られてない芸人が東京へというのは進出でも何でもない。僕はただ逃げてきたのです。大阪で売れるのを一度諦め、東京でもう一度初めからやり直すということでした。
東京で駄目なら次はどこ? というと、ニューヨークしかない。だから現実的に考えてここが最後なんです。そんななか相方の水口は東京へ行く一か月前から標準語で喋りだし、東京へ行くとパンクブーブーさんに憧れ博多弁を喋りだすという奇行ぶり。
お金を移転費用で使い果たした僕は、暇なのをいいことにヒッチハイクで上京しようと考えていました。それを見かねた同期の麒麟川島が新幹線のチケットをくれました。バッグ一つ抱えて川島の横に座って上京しました。生まれて初めてのグリーン車でした。売れていないのに上京、更にグリーン車というチグハグぶり。何から何までチグハグで、いま思えば来るべき未来を暗示していたようです。オハズカ。シイはなくても伝わるかと思います。東京で待ち構えるアパートは、京間ではない四畳半。片付けを終え、人ひとり寝れるスペースに寝転び上を見上げると全ての家電が僕に落ちるように置かれているように感じられました。
そうしてたどりついた東京にはやっぱりウキウキしました。特に憧れを持っているという自覚はありませんでしたが、愛媛と大阪しか知らない僕にはJRやNTT東日本という馴染みのない字面に外国にきたような感動がありました「ほう、僕は今東京にいるのか」と。日本の中心、芸能界の中心だ。関西芸人は大阪と東京で二回売れないといけないと誰かが言っていました。東京なら一回でいいなどと簡単に考え、大阪で売れなかったソラシドの東京でのチャレンジが始まりました。
しかし希望にあふれたチャレンジはすぐにサバイバルに変わりました。日々の生活に追われていきました。それは大阪ではなかった感覚でした。いま思えば大阪で芸人は街ゆく人々に甘えていました。家賃も待ってもらえたし、若手芸人というだけでただ同然で食べさせてくれる定食屋もありました。大阪は人情があると言えます。なんというかミーハーなのです。たまにくる仕事で、若手芸人のお家訪問のロケがありますが、大阪では大家さんにどんなロケでも断られたことはありません。
それが東京ではあっさり断られます。これでわかったのは東京ではテレビに出れようが出れまいが、他の住人に迷惑かけんな! そんなことよりはよ家賃払え! ということです。大阪でブレイクしだしたイケイケの若手芸人が支払うような額の家賃を、東京で売れていない僕が、それもたかだか江戸間の四畳半に払わんといけんのか。東京の人は冷たい。なんていいますけれど、正直冷たいどころじゃないのです。
大阪が何より住みやすいと感じたのは環状線が程よい大きさなことでした。劇場まで自転車でもカバー出来たのです。ミナミで少し出歩くと芸人とすれ違い、店に入ると芸人がいました。一方山手線は恐ろしい大きさでした。劇場のある新宿を歩いてもこんなに街には人がいるのに知り合いには一人も出会えませんでした。そして東京では大人が一人生きて行くには月末、無条件に十万円なくなるということが分かりました。やがて僕は芸人と遊ぶのを止め、唯一雇ってくれた建設会社の派遣で働くことにしました。