小池百合子はカイロ大学に“コネ留学”していた?背後にちらつく元総理大臣・中曽根康弘の影【浅川芳裕】
エジプトの国家エージェント 小池百合子
■ハーテムが日本に望んだ見返りとは
実際、《小池はハーテム氏に面倒をみてもらい、カイロでの留学中のかなりの期間、ハーテム家で子供たちと一緒に住んでいた》(「アハラーム紙」2011年9月3日)
《ハーテム情報相(当時)の支援を受けて、小池はエジプトに何年も滞在し、アラビア語と英語を学んだ。彼女と東京やカイロで何度か会った際に語ってくれたように、ハーテムは小池を我が子同然に考えていた》(「アハラーム紙」2016年8月3日)
見返りにハーテムは日本に何を求めたか、同じ号の『季刊アラブ』に詳細に記されている。一部抜粋する。
《ハーテムエジプト副首相訪日の成果─エジプトの実力者、ハーテム副首相は我が国政財界首脳と精力的に会談。多くの成果をあげ帰国。成果の一つはハーテムが提案した「日本・アラブ開発銀行」構想。中曽根通産相からの強い要請で有力都市銀行が具体案の作成に取り組むことになった。「石油の出ないエジプトが巨額の開発資金をひねり出すため日本に金主を依頼してきた」と及び腰のところもあるが、“第二のナセル“との呼び声が高いハーテム副首相の提案。そのものズバリの経済協力では2年間に億ドルの円借款供与について書簡が交換された。ハーテム副首相は5年間に10億ドルの資金協力を要請しており、ハーテム副首相にすれば「一ケタ違うのではないか」との印象をもったかもしれない》
日本は完全にハーテムの金づる扱いで、中曽根や協会はその後援者役という構図があからさまに描かれている。ハーテムの思惑どおりだ。じつは小池を懐に入れ、カイロ大学に入れさせたのは日本から金を引き出す巨大プロジェクトの一貫だった。エジプト日本友好協会長として、本人がエジプト政府系新聞で語っている。
一つ目のプロジェクトは次のとおりだ。
《ハーテム博士は日本(政府)や日本の首相との良好な関係に投資した結果、日本はカイロ大学小児病院や製鉄会社、オペラハウス(訳注:日本のODA事業名はカイロ教育文化センター)の設立援助に同意したという。しかし、博士の日本関係での最も重要な功績は、1973年10月戦争後、スエズ運河の再開に漕ぎつけたこと。日本が全面的に資金を提供し、第1段階で1億8000万ドル、さらに第2段階で1億8000万ドルの援助を実施したことであり、現在、スエズ運河はエジプトに年間30億ドルの利益をもたらしている》(『アハラーム紙』2004年6月21日)
ちなみに記事のなかにあるオペラハウス(約65億円)もハーテム―中曽根利権である。
《中曽根総理大臣は(中略)カイロ教育文化センター建設計画に関し、近々調査団を派遣し、右調査の結果に基づいて本件に対する無償資金協力の実施につき検討する旨述べた》(『外交青書』1984年)
オペラハウスはハーテムが大臣を務めた情報省の所管だった。元々あったものが焼失したため、中曽根に金を出させたのだ。