瘦せ姫が生きづらさを共感し、
助け合える場所はどこなのか?
摂食障害になった女性たちとの30年余りの交流の軌跡が話題の書に!
さらには、指吐きや腹筋吐き、チューブ吐きといった吐き方の違いによっても、微妙な優劣意識が生じたり。とまあ、このあたりが同じ「摂食障害」であっても完全に理解しあえるとは限らないゆえんです。
それともうひとつ「治療意欲格差」というものもあります。瘦せ姫は大なり小なり「治りたい」「治らなくてもいい」という相反する感情を持ち合わせていますが、その比率は人によっても状況によっても異なるため、そこでギクシャクした関係が生じるわけです。
話はややそれますが、ともに瘦せ姫的なメンタリティを感じさせる作家ともいうべき三島由紀夫が太宰治をこう評したことがありました。
「治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない」(註1)
じつはこれ、両者がともに「生きたい」と「死にたい」の狭間で揺れ動き、自殺という最期を迎えたことを思えば、一種の同族嫌悪とも考えられます。後年、三島自身もそれを認めていたりしますが、こういった状況が、瘦せ姫同士でも起きやすいのです。
たとえば、
「私はあの子ほどには瘦せたいわけじゃないし、吐くのもなるべく我慢してる。なかなかうまくはいかないけど、きちんと食べるよう努力してるもの。一緒にはされたくないな」
という具合に。
そして「格差」は往々にして「差別」へとつながります。気に入らない人を中傷したり、そこまではいかなくとも、共感しあっていたはずの相手と途中で仲違いしてしまったり、ということは珍しくありません。
では、ほどよく「同病相憐れむ」にはどうすればいいのか。摂食障害経験者で、NABA(日本アノレキシア・ブリミア協会)の共同代表を務める鶴田桃エがこんなことを言っています(註2)。
「確かに私は仲間やいろんな人と〝同じだよね〟って共感し合えることに救われました。でも、それだけじゃ足りなかった。〝違いを認め合うこと〟も大切だったんですね」
NABAはいわゆる自助グループ。リアルな世界での「心の助け合い」を目的としています。それゆえ、こちらも長年「両刃の剣」だという見方をされてきました。しかし、彼女は当事者同士の「違いを認め合うこと」で、より有効な場にできるのではということを示唆するのです。