中国や朝鮮の文化とはまったく異なる日本文化。清浄感こそが最大の特徴である
いま誇るべき日本人の精神 第7回
今日、エコロジーが、人類の新しい宗教となっている。
自然と共存しなければ、人類が生き伸びられないことが、理解されるようになっている。
日本文化の最大の特徴は、いったい、何だろうか?
ひとことでいえば、清浄感である。神道は、何よりも穢れを嫌う。清い心を持つことを、求める。
いま、世界的なブームとなっている和食をとれば、淡白で、できるかぎり自然を、そのまま取り入れている。素材の味を損なわずに、自然の恵みを楽しもうとする。
それに対して、中華料理や、フランス料理はさまざまな素材を用いて、もとの素材にない味をつくりだす。凝ったソースがそうだが、まるで化学の実験のようだ。
日本文化は、太古のむかしから、中国や朝鮮の文化と、まったく異なっていた。
和食には、山や、森や、川や、海の霊気が、宿っている。私たちからみると、中国や、西洋の料理は、人の手が加わりすぎている。
中国や西洋では、厚い鉄鍋が調理の主役だ。日本では素材を大事にするから、包丁だ。
私は仕事で、ヨーロッパや、中国、インドを足繁く訪れたが、インド料理も、素材の味をそのまま、活かすことがない。東アジア料理も、強い香辛料が、売り物となっている。
たしかに、私たちは中国や、朝鮮から仏教をはじめ、制度、儒教など、多くを学んできた。漢字もそうだ。だが、遣唐使が豚や、羊を連れてくることが、なかった。
美しいという漢字は、「羊が大きい」と書く。私たちの美意識は中国人のように、唾液腺にかかわることがなかった。
日本人の美意識は、雅にある。派手なものや、金銀のように光るものを、嫌ってきた。雅の語源は、平安朝の「宮び」からきているが、そこはかとない美しさや、香りを尊んだ。
中国の歴代の皇帝が住んでいた、北京の故宮というと、紫禁城を訪れると、まばゆいばかりの財宝が展示されている。
私は皇居の新宮殿にあがったことがあるが、金銀の光るものが、何一つない。ただ、気品が漂っている。
十一世紀前半の紫式部の『源氏物語』は、雅の文学であるが、「風涼しくてそこはかとない虫の声が聞こえ」(帚木)というように、雅は抑制された美である。
『源氏物語』は、私たちに平安の香りの文化を、伝えている。
梅の香が、しばしば登場する。梅も橘も、日本の原産種ではなく、中国から船で、豚や、羊のかわりに、持ち帰ったものだ。
私は中国に、全員が人民服を着ていたころから、しばしば招かれたが、不潔なのに閉口した。
漢字で「家」を漢和辞典でひくと、ウ冠の屋根の下に、豕がいると説明している。同じ屋根の下で、豚と暮していたのだ。
中国で墓参の時や、台湾でも廟に、豚の頭を丸ごと供える。私たちには、生臭さすぎる。
神道では神前に、榊を供える。榊はツバキ科の常緑樹で、清々しい光沢が美しい。
『源氏物語』の「賢木」に、光源氏が多くの恋人のなかの一人に、「変らぬ色をしるべとして」(自分のあなたへの心は、いつも変わらない)という和歌に、榊の葉を添えて、贈る場面がある。
和食は、西洋料理や、中華料理、韓国、インド料理と違って、清浄さと、何よりも季節を大切にする。私たちは、そこはかとない、繊細な隠し味を楽しむ。日本人は心を遣うから、何ごとについても、繊細なのだ。
自然は、自分をそのまま見せる。誇張することがない。
日本人は心の民として、つねに和を重んじて、自己主張することがなく、自制して、自然の清らかさを求めて、生きてきた。