「誰が松ちゃんをテレビから消したのか?」放送事業の破滅的構造問題【鎮目博道】
『ありがとう、松ちゃん』より
■テレビ局には取材能力のある芸能記者はもういない
こうしてワイドショーから「敏腕芸能デスク」も「名物芸能レポーター」も消えてしまい、「雑誌やスポーツ新聞を丸のまま引用するしかできない」状況になってしまった。だからある意味、松本人志さんがいくら「潔白だ」と主張しても、テレビ局には取材能力のある芸能記者はもう存在していない。それが悲しい現実なのだ。「健全な芸能取材能力の喪失」という意味では、じつは松本さんがテレビから消えたことと、一連の旧ジャニーズ事務所の問題とは、同じ根っこから発生しているのだ。
かくして、ホントかウソか確認もされぬまま松ちゃんはテレビから消された。しかし、よく考えてみると、文春ですら「松ちゃんをテレビから消せ」とは一言も言っていない。ただ疑惑を取材して記事にしただけだ。
ではテレビ局の誰が松ちゃんをテレビから消したのか? というと、じつはほぼ誰もいないのではないか。実態としてテレビ局はいま「どのタレントを出演させるか」ということにおいて、ほぼ何の決定権も持っていないに等しい。あらゆるスキャンダルを起こした(と見られる)タレントの出演可否は、ほぼスポンサー企業か芸能事務所の言いなりで決まっているからだ。
「スポンサーが難色を示している」と聞けば、「じゃあやめておこう」となる。もしスポンサーが明確に難色を示していなくても、「なんとなく嫌そうだ」と聞いたら、その意向を忖度して「とりあえずやめとこう」ということになるのが、現在のテレビ局の上層部だ。「テレビはオワコンだから、スポンサーがつきにくい」ということをあまりに恐れ過ぎている。だから、ほんの少し視聴者からクレームが来ても、ビビってしまう。「とにかくクレームが来ないようにする」ということだけをテレビ局の上層部は考えていると言っても過言ではない。つまり、「誰を出演させるか」という、テレビ局の根幹に関わる「編集権」まで放棄してしまい、自分たちの脳みそでは何も考えなくなっている。
■放送局としてのプライドももはやない
「コンプラ案件」に関して、テレビ局は思考停止状態。世間の顔色を窺っているだけで、放送局としてのプライドはすでに完全に消えている。
だから、「松ちゃんがテレビから消えたこと」は、テレビから「報道機関としてのプライド」と、「芸能ジャーナリズムとしてのプライド」と、「放送局としてのプライド」が消えてしまったことの表れなのだ。
この状況は、明らかに異常かつ危惧すべき状況だ。こんな状況を放置しておいてはいずれ、テレビからもっと大切なものが消えていくだろう。それは「視聴者」かもしれないし、「信頼」かもしれない。あるいは「テレビ自身」が消えてしまうかもしれない。そうなる前に我々テレビマンは、嘆かわしい現状を自らの手で改革していかなければならないのではないか。
〈『ありがとう、松ちゃん』より構成〉