アメリカの国力を熟知し
開戦回避を主張し続けた
山本五十六ははたして名将だったのか? 第1回
山本五十六連合艦隊司令長官は自らが立案したハワイ奇襲作戦の直前まで、日米戦を回避したいと考えていた。
択捉島単冠湾出撃3日前の11月23日、軍令部・連合艦隊・第一航空艦隊各司令部による最終打ち合わせが終わった後、山本は「ハワイへの航行途中でも日米交渉がまとまったら引き上げを命じるから即刻引き返せ」と訓示した。
すると第一航空艦隊司令長官・南雲忠一は「それは無理です」と応じた。山本は直ちに「百年兵を養うのは何のためか。国家の平和を守らんがためである。もしこの命令を受けても引き返せないという指揮官は即刻辞表を出せ」と叱咤した。
日本はアメリカと戦ってはならない、という山本の信念は、駐米時代からのもので、その潜在的な国力を正しく評価していた。「デトロイトの自動車工場を見るだけでも、アメリカと戦ってはならないことがわかる」とよく言っていた。実際、開戦12年前の1929年における自動車生産台数は、日本がわずか437台に対して、アメリカは533万7087台であり、ほぼ一家に1台のモータリゼーションを実現していたのだ。
山本の対米非戦の厳しい姿勢は、陸軍提案の日独伊三国同盟案に徹底して反対したことに示された。米内光政海軍大臣の下で次官を務めた山本は、井上成美軍務局長の強力な応援も得て、勝てないアメリカとの戦争に巻き込まれる危険が高い同盟案に職を賭して反対し続けた。
三国同盟案は、日本の態度に業を煮やしたヒトラーがこともあろうに独ソ不可侵条約を締結したため流産した。天皇は米内に異例にも謝意を述べたという。米内・山本・井上のトリオは、アメリカ海軍に日本海軍は勝てないというただそれだけの理由からではなく、もともと日本は米英と戦端を開くべきではないという信念が強かった。天皇と同様に彼ら3人は親米英派だったのである。