リングでは包丁に身を投げ、家では愛娘に身を捧ぐ。狂ったデスマッチファイター・竹田誠志の純な生き様
レスラー同士が蛍光灯で殴り合い、割れたガラス、包丁に身を投げ出すデスマッチ。出てきた当初は“キワモノ”扱いだったが、現在はプロレスの一ジャンルとして市民権を得てきている。その凶器が乱れ飛ぶリングで身体を張って戦い続け、デスマッチファイター屈指の人気を誇るのが、今回取材した竹田誠志だ。試合後に「今日もいい血が流せた」とコメントを残すなど狂気性をのぞかせる竹田だが、夢を持って歩んできたこれまで、愛娘と二人三脚で歩む今、話を聞けば純な生き様が見えてきた。
■「血を流したいな」デスマッチに心揺さぶられた中学時代
竹田誠志は東京都町田市生まれ。現在も地元で過ごしている。子どもの頃、熱心に見ていたのが新日本プロレス。深夜にこっそりと起きてTVの中継を見たり、録画した番組を見たりするぐらいハマっていた。
が、中学時代はお笑い芸人を目指していたという。同級生とコンビを組んで、コンテストに応募をしていたそうだ。しかし思うような結果を残せずコンビは解散してしまった。
「普通の仕事はしたくないな」
そんな思いを抱いていた誠志少年の心を震わせたのがデスマッチであった。画面の向こうでは大男たちが、有刺鉄線やガラスに飛び込み、画帖が散乱したリング上で受け身を取り、血まみれになりながら必死の形相で戦っている姿が映っていた。それを見た竹田の心がうずく。
「血を流したいな」「血を流すのはどんな感覚なのだろう」「ガラスって痛いのかな」
同じ舞台に立つ自分を想像して、ワクワクした。
「当時は、ミスター・ポーゴ(※1)さんとか松永光弘(※2)さんも出ていました。若手だった葛西純さんを見て、かっこいいなと思ってプロレスラーになろうと決めたんです」
葛西純は「デスマッチのカリスマ」との異名がつく、現在もトップクラスのデスマッチファイターだ。当サイトでもインタビュー取材を引き受けてくれたことがある。その男が竹田の進むべき道を決めた。
高校はレスリングが強い学校へ進学。部活動で厳しい練習を続け、体力と技術を鍛え上げていく。これもデスマッチファイターになるための修行だ。そう思っていた。卒業後は大日本プロレス(※3)に入門してデスマッチファイターになると決めていた。親にもそう告げていたが、ある日、先生の一言で竹田の進路は大きく変更することになった。
「高校の担任がプロレスファンだったんです。すごい詳しくて、僕が卒業後の進路を話したら『お前な、大日本プロレスに入っても身体中傷だらけになるし、お金もほとんどもらえないぞ。辞めた後も潰しがきかないから、何か資格を取っておけ』と忠告されました。それでひとまず調理師の専門学校へ行くことになったんです」
この進路変更が竹田の人生に大きな影響を及ぼすことになる。
※1:大仁田厚と電流爆破マッチで死闘を繰り広げた元祖デスマッチファイター。2003年に故郷の伊勢崎市議会議員選挙に立候補したこともある。2017年に群馬県内の病院で死去した。享年66歳。リングネームが受け継がれており、現在は三代目がいる。
※2:日本初のデスマッチ団体W★INGで活躍した元デスマッチファイター。後楽園ホール2階バルコニー席からのダイブを敢行したこともある「ミスター・デンジャー」。2009年に現役引退。現在は東武亀戸線東あずま駅近くでステーキ店を経営している。
※3:日本プロレス、大日本プロレスで活躍したグレート小鹿が旗揚げしたプロレス団体。旗揚げ当初からデスマッチ路線を歩む老舗デスマッチ団体として知られる。現在はデスマッチとストロングスタイル路線を同時に進行させている。