宇能鴻一郎 『夢十夜』 理想を現実にして生きるために必要なこと 【緒形圭子】 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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宇能鴻一郎 『夢十夜』 理想を現実にして生きるために必要なこと 【緒形圭子】

「視点が変わる読書」第15回 『夢十夜』宇能鴻一郎 著

 

◾️谷崎潤一郎、三島由紀夫への強いコンプレックス

 

 本文の中でも述べられているが、宇能さんはこの小説を平成版『サチリコン』として書いたという。『サチリコン』とは、ローマ詩人ペトロニウスが書いたといわれる悪漢小説である。エンコルピウスという若者が二人の同伴者とともに南イタリアを主舞台に様々な冒険を行う物語で、ネロ帝政下のローマ社会の卑猥な一面が生々しく描き出されている。

 宇能さんはこの小説で、満州での少年時代、引き上げてから作家になるまでの経緯、谷崎潤一郎、三島由紀夫への強いコンプレックス、何故自分が官能小説家になったのかなど、自身にかかわるあらゆることを夢とも現実ともつかない話として書いている。

 そこに現れているのは自身の理想を現実にして生きる強い意志だ。

 宇能さんは徹底して崇高と壮麗を求め、卑俗を嫌った。

 高校生の頃からクラシック音楽に魅せられ、ギリシャ、ヘレニズム彫刻を愛し、ゲーテの『若きヴェルテルの悩み』に震撼した。日本の古文書に親しみ、こうした古典趣味が芥川賞受賞作「鯨神」を初めとする初期の小説作品に結実している。

 では何故官能小説を書くようになったのだ? 官能小説は卑俗ではないのか? と問われそうだが、それについては是非本書をお読みいただきたい。

 官能小説で稼いだ宇能さんは、横浜市六浦に理想の家を建てた。私が訪れて驚愕した洋館である。本書によれば、自ら設計に関わり、自分でコンクリートを塗り込めるといった力の入れようだったという。

 妻子は別の家に住まわせ、面倒な人付き合いを避け、自分の好きな物に囲まれて日々を送った。別に世捨て人というわけではない。妻と毎週のように高級レストランで美食を楽しみ、海外旅行にも頻繁に出かけていた。さらに、月に一度ダンスパーティを開いた。ダンスは個人レッスンで長年修練を続け、相当のレベルに達していたようだ。

 

 しかし、ダンス関係の交遊は快適だ。何より全員燕尾服というのがいい。女性のドレスが引き立つので食卓の景色がいいし、ピアノ演奏のあと十時には全員引き上げる。それ以上の深い付き合いはない。いわば燕尾服やダンスドレスの彫像たちだ。深夜、一人になってから、シャンデリアを消した舞踏室の床にきらめく無数の宝石(裏に反射紙を貼ったガラスだが)を拾いながら、大鏡に映る自分の燕尾服を確認し、今日の女性たちの肩のなめらかさを想起する幸福……これ以上の交遊は絶対に不用だ。(「第四夜 羅馬」)

 

 こんな理想の生活をするにはもちろん金がかかる。しかし、金があるからと言って、理想が実現できるものではない。

 必要なのは、確信と意志だ。

 古典趣味であること、純文学を捨てて官能小説家になったこと、面倒な人付き合いを避けること、そこには常に確信があった。しかし、時に確信がゆらぐ時もあっただろう。寂しさを感じる時もあっただろう。

 しかし、宇能さんは、「感傷は愚劣だ、友情は不潔だ、悲しみは恥辱だ」と公言し、強い意志で自分の理想を現実にして90歳まで生きた。

 『夢十夜』が刊行された2014年の年末、私は宇能邸のダンスパーティに招かれた。もちろん踊れない私はダンスをしなかったが、宇能さんが小説に書かれた通りの、燕尾服の男性とドレスの女性たちに囲まれ、陶酔の一夜を過ごした。

 四十九日が過ぎ、宇能さんはすでに彼岸の世界に行かれたことだろう。あちらの世界でもきっと燕尾服を着て颯爽とした姿で女性をエスコートしているに違いない。

 

文:緒形圭子

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緒形圭子

おがた けいこ

文筆家

1964年千葉県生まれ。慶應大学卒。出版社勤務を経て、文筆業に。

『新潮』に小説「家の誇り」、「銀葉カエデの丘」を発表。

紺野美沙子の朗読座で「さがりばな」、「鶴の恩返し」の脚本を手掛ける。

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