【11.17引退】“三沢光晴最後の対戦相手”という過酷な運命を背負った男・齋藤彰俊が「生」を語る
11月17日に一人のプロレスラーがレスラー人生の幕を下ろす。彼の名前は齋藤彰俊。新日本プロレスで一世を風靡した平成維震軍のメンバーとして活躍。2006年からはプロレスリング・ノアに戦いの場を移して、同団体を支えてきた。彼はプロレス界の歴史に名を刻む三沢光晴最後の対戦相手としても知られる。レスラー人生の約半分を「三沢光晴最後の対戦相手」として戦ってきた男は、自らの運命を背負いリングに上がり続けた。そんな波乱万丈なプロレス人生を本人に直接聞いてみた。(文中敬称略)
■ジュニアオリンピックを制した水泳選手から格闘技の道へ
齋藤彰俊は、水泳のジュニアオリンピックで優勝経験があるアスリートであった。中学校時代は全国大会で3位に輝き、高校時代はインターハイで優勝。大学進学後はインカレ、国体、日本選手権を制覇するほどの選手だった。ユニバーシアード、パンパシフィックの日本代表に選ばれたこともある。
そんな齋藤は幼い頃からのプロレスファン。TV画面の向こうに映るプロレスラーに夢中であった。特に大好きだったのは、当時維新軍として藤波辰巳(現・藤波辰爾)と抗争し、全日本プロレスに乗り込んでいた長州力である。水泳日本選手権で自身が入場するときのテーマソングに長州力の入場曲「パワーホール」を選ぶほど、長州に入れ込んでいた。
「TVでファンになりましたけど、意外と影響受けたのは『1・2の三四郎』(※1)という漫画でしたね。のめり込んで読んでました。水泳選手時代も『プロレスやりたいなあ』とずっと思っていました」
そんな齋藤青年がプロレス入りしたのは、水泳選手を引退した1989年のことだった。旗揚げしたばかりのFMW(※2)で空手の試合を行ったことがきっかけだった。その後、1990年剛竜馬(※3)が主宰するパイオニア戦志でプロレスラーとしてデビューを果たす。1991年にはW★INGの旗揚げに参加し、空手を武器にしたレスラーとしてリングに上っていた。
「デビューした頃は誠心会館(※4)と提携していた塾の道場生でした。空手の大会に出るときは誠心会館の一人として出場させていただきましたね。あの頃のW★INGは、デスマッチとかをやる団体じゃなくて格闘技志向だったんです。当時は空手以外にも柔道やサブミッションアーツ出身の人がいて、格闘技の合宿とかしていました。
でも旗揚げ戦やってみると(デスマッチファイターの)ミスター・ポーゴ(※5)さんとかTNTがいたんで『これは異種格闘技なんだ』と思っていました。結局試合ではブーツとか椅子で殴られて全然異種格闘技じゃなかったですが(笑)。
合宿では『これからコカ・コーラをスポンサーにしてマイク・タイソンを呼ぶぞ』なんて聞いていましたけど、タイソンもコカ・コーラも来ませんでした(笑)」
W★INGは旗揚げ早々に分裂騒動が勃発、資金難もあり混乱状態に陥った。齋藤はW★INGを離脱した後、分裂したW★INGの格闘技路線が始まるのを待つ日々が続いた。
「こう話すと苦しかったように聞こえるかもしれませんが、当時はワクワク感のほうが強かったです。夢だったプロレスラーになれて、自分が夢に向かって歩いているという実感を得ていましたし、すごく希望を持っていたのでつらいとは思ってませんでした」
そして1992年、齋藤彰俊に転機が訪れる。
※1:『週刊少年マガジン』(講談社)で連載されていた人気漫画。スポーツをベースにした展開となっており、ラグビーや柔道、プロレスの試合を描いている。
※2:大仁田厚が旗揚げしたプロレス団体。電流爆破デスマッチで人気を博したが、旗揚げ当時は格闘技志向の団体であった。
※3:「プロレスバカ」の異名を持つプロレスラー。国際プロレス、新日本プロレスで活躍後、第一次UWFへと移籍。退団後は全日本プロレスにも参戦した。
※4:空手道場・国際空手拳法連盟所属の空手道場。館長の青柳政司は齋藤彰俊と一緒に平成維震軍に参加していた。
※5:新日本プロレスでデビューしたプロレスラー。大仁田厚のライバルとして活躍したデスマッチファイターである、現在3代目がレスラーとして活動している。