【11.17引退】“三沢光晴最後の対戦相手”という過酷な運命を背負った男・齋藤彰俊が「生」を語る
■プロレスラーとしての基礎と心構えを教わった平成維震軍時代
誠心会館と新日本プロレスとの対抗戦が勃発したのだ。きっかけは些細な出来事からだった。
さかのぼること1991年12月8日、誠心会館自主興行が開催されていた後楽園ホール大会の控室でのこと。誠心会館館長・青柳政司の付き人が、控室のドアを”バーン”と強めに閉めたことからだった。控室にいた小林邦昭が「オイ、もっとていねいに閉めろ!」と注意すると、聞き取れなかった付き人が「なんですか?」と聞き返したのを、小林は口答えしたととらえ殴りかかってしまうのだ。
後日、小林は誠心会館の道場生から襲撃を受けてしまい、対抗戦がスタートした。
「自分がその件を知ったのは小林(邦明)さんに襲撃された人からの電話でした。『こんな理由で理不尽に殴られた』と相談を受けていたんです。でも、その人はアパレル会社に勤める立場ある人だったので、(自分が反撃して)ことを大きくするのをためらった。ということで僕が代わりにいくことになったんです」
かくして齋藤は1992年1月4日の新日本プロレス東京ドーム大会に、誠心会館の門下生として仲間と乗り込み、新日本プロレスに宣戦布告。小林邦昭、小原道由(※6)、越中詩郎に勝利した。その後、青柳、小林、越中詩郎、木村健悟と反選手会同盟を結成し、新日本プロレスにレギュラー参戦を果たす。
そして子供の頃からの憧れだった長州力とリング上で対峙したのである。その時の気持ちは。
「本当はリング上で向かい合うのではなく、横にいたかったですね。当時の長州さんは怖かったです。忘れもしないんですけど、長州さんは素手で空手着を破ったことがあるんです。空手着って柔道着ほどではないけど、すごく丈夫にできていて簡単にやぶれるような代物じゃないんです。それなのに、素手でビリビリって破いたのを見たときは『危ないな』と思いましたよ(笑)」
反選手会同盟は、戦いの場を天龍源一郎率いるW.A.Rにまで広げた。グレート・カブキと小原道由が加入し、平成維震軍と名前を変えてからも今まで以上に暴れまわった。後藤達俊(※7)、野上彰(※8)がメンバー入りをし、自主興行を果たすなど一大ムーブメントを起こした。
齋藤はカブキ、小林邦昭、越中詩郎から刺激を受け、プロレスラーとして一回り大きくなった。カブキからは、レスラーとしての基本である受け身からテクニックまでを教わり、小林からは身体を大きくするための栄養のとり方を教わった。越中からはプロレスラーとしての心構えを教わったという。
後に平成維震軍に加入してきた天龍源一郎、カブキからは酒の「スタイル」も叩き込まれた。
「ホテルの部屋で横になっていると、背後に天龍さんがいるんです。当時もホテルって自動で鍵がかかるはずなんですけど、なぜかいる(笑)。『おい、飲みに行くぞ』と呼ばれて、アイスペールに(焼酎やウイスキーを)注ぎ込んで『飲め』って言われるわけです。当時の『飲め』は一気ですよ。それを潰れるまで繰り返されるんです。
後、カブキさんから『テキサススタイル』という飲み方をやらされました。それはウイスキーそれもジャックダニエルのストレートとビールを交互に飲むスタイルです。ウイスキーはジャックダニエルという決まりでしたね。もちろん潰れるまで続けます。チェイサー?そんなものありませんよ(笑)。ビールがチェイサーの代わりです。でも、後からカブキさんに『テキサススタイルなんてウソだ。あれは俺が考えた』なんて言われましたよ(笑)
どっちも今ならアルハラ(アルコール・ハラスメント)でアウトですけど、当時は平気でしたね。僕も『プロレスラーは一般常識を超えたことができないダメだ』という世代だったんで、やっちゃうんですよ」
浴びるように酒を飲み、常人ではクリアできない量の練習をこなす。そんな「規格外の化け物」というのが、齋藤が子どもの頃の世間のプロレスラー像だった。
※6:新日本プロレスで活躍した元プロレスラー。平成維震軍解散後は、「犬軍団」として後藤達俊と共闘し、IWGPタッグ王者となった。
※7:新日本プロレスに所属したプロレスラー。キャリアの殆どをヒールとして過ごしており、新日本プロレス退団後は様々団体のリングで活動してきた。
※8:現在はAKIRAの名前で活躍中。アキラノガミの名前で俳優としても活動しており、浅井企画に所属している。