「事実無根の捏造記事」で文藝春秋に名誉毀損訴訟で勝った私からの警告《後編》【浅野健一】
『ありがとう、松ちゃん』より #後編
■ジャーナリズムも役割を勉強しなおせ!
ジャーナリズムの語源はラテン語のdiurna(日々の・英語ではdaily)で、日々の記録という意味がある。高橋哲哉東京大学名誉教授(哲学)によると、jourはフランス語で「一日一日」であり、「光」「近代の光」「啓蒙の光」を意味しており、日々の記録だけでなく、未来に光を与えるのが仕事だ。第3代米国大統領トーマス・ジェファーソンが「新聞なしの政府と政府なしの新聞、いずれかを選択しろと問われれば、私は少しも躊躇せずに後者を望むだろう」と述べたように、米国では新聞は民主主義にとって最も重要な機関とされている。
米国大学でのジャーナリズムの講義では、ジャーナリズムの役割を「市民の委託を受けて、権力を監視するのが主な任務である。当局、当局者に対して健全な懐疑的姿勢を常に持つこと。従って報道の自由は極めて政治的な権利と考えられる」「社会の中で起きている森羅万象の出来事から、人民が知るべき情報を取捨選択して取材し、できるだけ客観的に伝える」などと規定。「声なき声の代表となること。自分では社会に訴える手段や能力に欠ける障害者、少数者の声をすくい上げ、探し、伝える」「情報の自由な流れを促進する。しかも倫理的に伝達しなければならない」「一般市民の信頼と尊敬を獲得すること。市民の支持を得て活動すべきで、市民の権利を傷つけたり被害を与えたりしてはいけない」と定めている。[詳しくは浅野編『英雄から爆弾犯にされて』(三一書房、1998年)第9章を参照]。
私は、ジャーナリズムの最も大切な使命は、人民の知る権利にこたえ、人民の権益を擁護し、権力を監視するところにあると考えている。
しかしながら、日本においては、部数を伸ばすためとか、せいぜい好奇心を満たすという情緒的な姿勢が目立ち、情報を自分たちで吟味して、社会の前進のために伝えるジャーナリズムが根付いていない。
そして、表現(報道)の自由と個人(及び団体)の名誉・プライバシーなどの人格権はともに基本的人権なので、いずれも尊重されるべきだが、これを両立するために必要なことは「正確なジャーナリズム」だ。そのために、ジャーナリストは、報道に際しては当事者双方の言い分をよく聞き、間違っていれば、一生償うぐらいの覚悟で客観的証拠を検証して公益的観点から真相を明らかにすべきものだ。
これに対し、事件の一方の当事者の主張のみを報じ、その真実性を吟味することなく、読者の好奇心を満たすような見出しを付して、特定の個人や団体を断罪するようなストーリーを作っていくようなジャーナリズムは、人権侵害を行っているのに過ぎないものであり、その名に値しないものと考えている。
〈『ありがとう、松ちゃん』より構成〉