「働き方改革」が「働き方改悪」に変わるとき
逆行する日本社会の死角とは
◆労働時間を選ぶ権利の欠如
「働き方改革」をめぐっては、オランダが、しばしば引き合いに出される。1日8時間にとらわれず、家事や育児などの家庭生活に合わせて労働時間を選べる仕組みを導入した先進例として知られているからだが、オランダでは、1日最大8時間の原則は堅持されたうえで、どの時間帯で何時間働くかを働き手が選べる権利が保障されている。会社は、働き手が求めるシフトを、合理的な理由を立証できない限り断ってはならないという「労働時間調整法」が2000年に制定されているからだ。これに先立つ1996年には、「労働時間差別」を禁止する条項が、差別禁止法の中に規定された。労働時間が短いからといって同じ仕事なのに時給が安い、といったやり方は、差別であり、あってはならないということだ。これらの措置で、働き手が生活に合った労働時間を選択できるようになり、働き手のための柔軟な労働時間が実現した。
その結果、質のいい短時間労働が多数生まれ、家事を抱える女性も経済力が大幅に増した。それによって、男性が家族の扶養のために長時間労働を強いられる事態も改善された。
「働き方改革」がうたう「長時間労働の是正」や「同一労働同一賃金」は、一見、オランダのメニューに似ている。だが、「労働時間差別の禁止」や「選べる権利」といった働き手が生活のための時間を確保する権利の保障については、ほとんど論議がない。これでは、企業が好きな時間、好きなだけ働かせることができる「働かせ方改革」と批判されてもしかたない。
◆成功しすぎた男女分業?
背景には、日本の戦後社会が、男女分業で成功したという根強いイメージがある。日本の高度成長期は、社会保障費用を安く抑えるため、女性が家庭で家事・育児・介護を無償で担うことを基本としていた。家事や育児に時間を取られて十分に働けない女性を扶養する役割が男性に割り当てられ、そのために男性を長時間労働へと追い込む政策が取られ続けてきた。
オランダも含め、どの先進国も、1970年代まではそうした男女分業社会は基本形だった。だが、1970年代のオイルショックと、その後のグローバル化の進展によって、男性の扶養力の源泉だった製造業は海外へ出ていった。女性は男性の家族賃金に依存できなくなり、また、1975年の国際婦人年を機に世界的に高まった男女平等への流れが、女性の就労の背中を押した。
一方、日本は、オイルショックを別の方法で乗り切ってしまった。過労死まで招いた男性の極端な長時間労働と、そうした男性に扶養されていることを理由にした女性の極安のパート労働の二本立てで人件費を抑え込んで輸出産業を温存し、加えて、景気の悪化による財政難に、女性の無償の家庭内福祉の強化による福祉削減で対応したのだ。その成功イメージがあまりに強かったことが過信を生み、その後の男女分業からの転換は、遅れ続けた。
1986年に施行された男女雇用機会均等法も、この路線上にあった。労基法の女性保護を段階的に撤廃し、男性の長時間体制を維持したまま、これに合わせることができた女性だけが、「総合職」などの形で男性並みの待遇を認められるつくりとなったからだ。男女共通の労働時間短縮によって、家事・育児労働の男女共有化を進めた欧州とは、逆方向の改定だった。