すべては『プガジャ』から始まった【新保信長】新連載「体験的雑誌クロニクル」2冊目
新保信長「体験的雑誌クロニクル」2冊目
思うに『プガジャ』とは、ひとつの「場」だったのだ。そこにさまざまな情報や人が集まり、そこから何かが生まれてくる。「何かをやりたい」という若者たちが集い、情報交換し、仲間を見つける。そういう媒介=メディアとしての役割を考えれば「メッセージ」から「出会い」への変更は、むしろ筋が通っている。
ただ、その背景にあった「“熱血”の70年代から“シラケ”の80年代へ」という時代の変化は見逃せない。情報は求めてもメッセージは求めない読者が増えていた。リニューアル前の81年6月号に〈近頃、読者短評を見ていて、女の子の投稿が増えてきたことに、ビックリしています。正直言って、こんな自分勝手で混沌とした雑誌(プガジャ)を女の子がおもしろがって読んでるなんて、信じられません。無理してるなら、早くLマガに切り変えた方が、変な病気にならずにすむと思います〉という(今なら軽く炎上しそうな)
そうした流れのなかで、『プガジャ』はさらに大きな転機を迎える。83年1月号をもって、「B6平綴じ・100円」という創刊以来のスタイルから「B5中綴じ・180円」へと変身したのである。それはほかでもない、『Lマガ』のスタイルだった。
その変更について、前出・村上氏は「一つは広告対応のため。広告主が“『Lマガ』と同サイズのほうが広告入れやすい”というので(笑)。もう一つは、B6では情報が入りきらなくなっていた。かといってページを増やすと、印刷に時間がかかり、情報の締め切りが早くなってしまう。そんなこんなで変えたんですけどね」(別冊宝島345『雑誌狂時代!』)と述べている。
それは苦渋の決断だったに違いない。読者の反応は賛否両論だったが、やはり『Lマガ』追随には納得できない層が(私も含め)多かったのではないか。その判型変更から3カ月後、私は大学進学のため大阪を離れることになる。好むと好まざるにかかわらず、『プガジャ』ともそこでお別れとなった。
その後、『プガジャ』は87年12月号をもって6代目編集長・小堀純氏以下、全スタッフが退社。翌月からまったく別の体制で発行されるも88年9月号で休刊となる。
実家の食堂も大毎地下も『プガジャ』も今はもうない。いずれも最後を見届けることはできなかった。しかし、その3つのどれが欠けても今の自分はなかったし、『プガジャ』がなければ編集やライターの仕事には就いていなかったかもしれない。もちろん、こんな連載もしていない。すべては『プガジャ』から始まったのだ。
文:新保信長