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「信長は宗教心が薄かった」は本当か? 安土城には菩提寺があった

「ハイテク」な歴史建築③

1579年、織田信長の命により築城された、安土城。そのわずか3年後の1582年には、焼失、落城してしまった本城ですが、実は今その跡を訪れると、そこには、信長の意外な一面を知ることのできる遺跡があるのですーー。

安土城跡に今も立つ、摠見寺三重塔

 安土城は、信長が1576年、重臣の丹羽長秀(にわながひで)を総普請奉行に据え、標高199メートルの安土山に築城させた地下1階、地上6階建、日本初の、石垣の上に天主(天守)を持つ平山城でした。
 現在は、両側が石垣で囲まれた大手道を上りきった山頂に、人の背丈ほどの石垣に囲まれた東西約25メートル、南北約30メートルの台地に、約90個の礎石が整然と並ぶだけの天主跡があるのみです。

 さて、この大手道の石段を注意深く見ながら上がっていきますと、ところどころに石仏が敷かれていることに気づきます。
 もちろん、これらの石仏はおまいりのために置かれているのではありません。城普請に使われる木材や石材は近郊の山から採取されるのが普通ですが、信長が命じた性急な工期のために、近隣の寺の解体によって得られた木材や石材として用いられた墓石や石仏も少なくなかったのです。つまり、墓石や石仏を踏みながら大手道を上り下りした人がいたということです。
 宗教心が薄かったといわれる〝革命児〟信長ならではのことと思われますが、信長のこのような所業に畏怖した家臣や職人は少なくなかったと思われます。

摠見寺三重塔

 大手道とは異なる道を下りますと、石垣に囲まれた狭隘(きょうあい)な土地に窮屈そうに建つ摠見寺(そうけんじ)三重塔に出会います。一般的にはほとんど知られていないのではないでしょうか。
 摠見寺は、安土城築城の際、信長が自らの菩提寺として創建させた寺でした。安土城と同様に、性急な信長は、甲賀郡を中心に近江各地から多くの建物を移築して、摠見寺を創建したのです。
 18世紀末の時点では、本堂、仁王門、三重塔、書院など22棟の建物があったことが確認されていますが、現在、残っているのは三重塔と仁王門のみです。
 いずれにしましても、城内に伽藍を備えた寺院が建立されたのは安土城のみです。墓石や石仏を石段に使った信長でも、自分の菩提寺を身近に置く必要があったのでしょう。人間的といえば人間的です。

 三重塔は現在の滋賀県湖南市にある長寿寺から移築されたもので、創建は室町時代ですが、本瓦葺き、総高19.7メートルの和様を基本にした塔です。いかにも廃寺という雰囲気があり、事実、痛みもかなり激しいように思われます。
 安土城跡から下る途中まず目に飛び込んでくるのは、目の高さにある初重の屋根瓦です。五重塔や三重塔は下から見上げるのが普通ですから、摠見寺三重塔の見え方は異色で、屋根の四隅にある鬼瓦の表情をはっきりと見ることができます。
 ところで、当時、近江地方には長寿寺の三重塔よりも大きな三重塔(総高22.8メートル)が常楽寺にあり、信長の好みとしては、この威風堂々とした常楽寺三重塔を移築したかったのではないかと思うのですが、あえて、小規模の長寿寺三重塔を選んだのは、その立地条件の制約のためだったのでしょう。おかげで、常楽寺三重塔は助かったのです。

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志村 史夫

しむら ふみお

1948年東京生まれ。名古屋大学工学博士(応用物理)、静岡理工科大学教授、ノースカロライナ州立大学併任教授、応用物理学会フェロー、日本文藝家協会会員。日本とアメリカで長らく半導体結晶などの研究に従事したが、現在は古代文明、自然哲学、基礎物理学、生物機能などに興味を拡げている。

主な著書に『「ハイテク」な歴史建築』(KKベストセラーズ)、『古代日本の超技術』『古代世界の超技術』『いやでも物理が面白くなる』(講談社ブルーバックス)、『スマホ中毒症』(講談社+α新書)、『アインシュタイン丸かじり』(新潮新書)、『漱石と寅彦』(牧野出版)などがある。

 


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  • 志村 史夫
  • 2016.09.09