統一教会を批判する人の愚鈍さ 「君たちは洗脳されている」と言い続けても何も変わらない理由【仲正昌樹】
人は物語を生きる存在である
■「自分とはどういう存在かをめぐる『物語 story』」を人は生きる
肝心なのは、その人がそれまでの人生で形成してきた、
統一教会の原理講義も、そうした物語、教団が共有している人間の生き方についての物語をベースにしている。新しく来た人に対するトークは、その人の人生の物語と、教団の教義の物語が一致しているように思わせる試みである。教団からすれば、人生の真実を明らかにする営みだが、批判的な観点に立てば、異質な物語の間での辻褄合わせにすぎないであろう。
統一教会の暫定的な教典である「原理講論」の中核になっているのは、新旧約の聖書をベースにした人間の(楽園からの)堕落と復帰の物語である。ベースが聖書なので、解釈は別として、ユダヤ教やキリスト教の物語とさほど違わない。統一教会がどういう教義か紹介することが本稿の目的ではないの
特徴は第一に、人間の始祖の堕落を性的なものと見ること。この見方自体は、フーコー(一九二六-八四)の『肉の告白』(二〇一八)とかミルトン(一六〇八-七四)の『失楽園』(一六六七)を読めば分かるように、キリスト教思想史ではさほどレアではない。統一教会は、それが私たちのリアルな人間関係に反映されている、と教える。簡単に言うと、愛欲をめぐる人間関係のもつれである。
第二に、旧約聖書で展開されるユダヤ民族の生成と迫害の歴史を、カインによるアベル殺害に始まる、自分は――神あるいは親から――愛されてないと感じる者の、愛されている者に対して抱くルサンチマンと、後者によるそれを克服するための闘いの歴史と見る歴史観である
原理講義では、オーソドックスなクリスチャンであれば、顔をしかめそうなほど、聖書の代表的なエピソードを、身近な問題に感じられるように解釈、プレゼンするので、何だか自分のことを言われているように感じる人もいる。そこで、紹介者が、「そうです、あなたの話です!」といって引き込んでいく。無論、ピンと来ない人や、聖書と結び付けられると、違和感を覚える人の方が多いだろう。だから、そのまま通い続けて信者になるのはごく一部である。