自発的に性産業で働いている人たちのことをフェミニズムは一体どう考えているのか?【仲正昌樹】
「ポルノと女性の権利」についての考察1
■「ジェンダー的性正義」を適用する人たちの落とし穴
「イマジナリーな領域への権利」は、文化的マイノリティの――西欧人の目から見て――抑圧的な慣習のようなものをどうすべきか考える時にも示唆的である。キルギス等中央アジアで、「アラ・カチュー」と呼ばれる婚姻の形態がある。簡単に言えば、女性を暴力的に拉致して婚姻関係を結んでしまうことだ。無論、現在ではどの国でも法的に禁止されているが、政府が把握していない所で、アラ・カチューが実行されているとされ、国際的な人権問題として注目されている。
では、「アラ・カチュー」で誘拐された女性の権利を回復するには、何をすればいいか。近代法的に考えれば、誘拐犯の男と協力者たちを罰し、本人が元いた所に連れ戻すのが大前提になりそうだ。誘拐されてすぐであれば、ほとんどの場合、それが正しい措置だろう。しかし、誘拐から既に何十年も経ち、子や孫も生まれ、当人同士が幸福そうに暮らしている場合も、そうだろうか。原状回復すればいい、というものではないことは分かるはずだ。経済的な問題や家族関係の法的整理もさることながら、本人の「イマジナリーな領域」を今後どう発展させるかが重要になる。
私はある雑誌のインタビューでそういう主旨のことを述べたのだが、Saebouという自称フェミニストがものすごく短絡的に曲解し、「この人は文化的慣習だからといって、女性の略奪を正当化しようとしている」とネットに書き込んだ。それは曲解だと抗議したが、返答はなかった。フェミニストを名乗る者には、自分たちが想定する「ジェンダー的性正義」をあらゆる状況に直接適用しようとし、当事者の「イマジナリーな領域への権利」を全く考えようとしない者が少なくない。
文:仲正昌樹