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堺のお墓①伊東義祐、ここに眠る

季節と時節でつづる戦国おりおり第419回

 コロナのおかげで遠くに旅行するのも憚られ、最近めっきり取材旅行に行けません。ということで、今回は手近なところで済ませましょう。

 堺市内にある戦国関連のお墓で、まだご紹介していないものです。

 慈光寺さんにそのお墓はあります。ひっそりと小さく、うっかりしていると目線がその上をさまよってしまい、なかなか視界に入って来ません。

 このお墓は伊東義祐さんのものです。

 彼はなかなかついていない男で、日向国(現在の宮崎県)の戦国大名でしたが、家督相続以前に伊東氏の本拠・都於郡城は戦火で焼失し、当主として入った佐土原城も直後にまた火事で燃えてしまったため、宮崎城に腰を据えました。

 永禄12年(1569)には家督を譲った息子・義益に先立たれ、さらに元亀3年(1572)の木崎原合戦で島津義弘に惨敗。天正4年(1576)、肝付良兼に嫁いだ娘は両家の決裂にともない離縁されて出戻り、翌天正5年(1577)には重臣の福永丹波守が島津方に寝返ったため、豊後の大友宗麟を頼って落ち延びました。大友氏と伊東氏は天正6年(1578)に島津軍に決戦を挑みましたが、有名な耳川合戦で大敗北を喫しました。

 その後は大友氏の勢いも落ちる一方。義祐は翌年伊予国の道後に移ります。敗残の身を溫泉に浸かることで慰めたのでしょうか、この頃には供はわずか20人余りだったということです。

 その後の義祐は各地を流れ歩き、天正13年(1585)堺の海岸で倒れていたところを三男の祐兵の家中に助けられましたが、すでに衰弱しきっていた義祐はそのまま回復することなく世を去り、堺に葬られたということです(『寛政重修諸家譜』他)。

 いかがですか、これでもかという不幸ぶり。

 それでも、最期をみとった祐兵は豊臣秀吉に仕えて九州征伐で活躍。日向国で5万石を与えられて大名に復帰し、その子・祐慶も慶長5年(1600)関ヶ原合戦で東軍に参加して所領安堵を受け、以後明治までその家は続いているのですから、義祐はもって瞑すべきでしょう。

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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