千葉が生んだ奇跡の偉人・伊能忠敬は50歳を越えて偉業を達成した
千葉が生んだ伊能忠敬の出自を辿る(後編)『千葉 地名の由来を歩く』人物編
千葉県は成り立ち上、古くから全国の各地と密接につながっていました。安房の国・上総の国・下総の国はもともと阿波の国(現在の徳島県)の忌部(いんべ)氏が移住してできた歴史があるのです。また九十九里や銚子が紀州の人々によって開拓された事実、そして平安末期から鎌倉期にかけて千葉常胤の活躍によって全国に千葉氏の勢力が広がっていきました。千葉県はまさに日本史を理解する上で重要な位置を占めています。そんな『千葉 地名の由来を歩く』より選りすぐった人物をご紹介します。
「子午線一度の偉業」
私が注目したのは、伊能忠敬記念公園の碑の後ろに刻まれた次の一節だった。
「先生は、内外圧による封建制の崩壊直前という激動の時代を背景に、幼少の頃から志を立てて幾多の困難を克服し、農業・商業にわたってすぐれた社会貢献を重ねた。晩年、文化13年(1816)まで約十六年間、天測地上測を兼ねた独創的な方法によって、日本全土の測量を推進した。なかでも天測による子午(しご)線一度の算出は、世界土木技術史上はじめての偉業として異彩を放つ」
「先生」の偉業を称える全体の文章のタイトルが「子午線一度の偉業」であったことにまず目を惹かれました。どうやら、この「子午線一度」がどのくらいの距離になるかを測定することが重要と考え、それが全国の測量に広がったということらしいのです。
忠敬は江戸では深川の富岡八幡宮近くの黒江町に住んでおり、そこから約九キロ北の暦局(れききょく)まで通っていました。
当時はこの二つの地点の緯度の差が「一分半」ということがわかっていたので、そこから計算して一度の距離を測定しようとしたのです。
そこで、忠敬は歩測でその距離を測り計算しようとしたのですが、その程度の距離では一度の距離は出せないと高橋至時に言われ、蝦夷の測量を決意したとのだといいます。
自宅から暦局まで歩測で作成した地図が残っており、現在国宝となっているとのことで、やはり並ではないと痛感させられます。
伊能忠敬とそのグループは都合10回の測量で日本列島の地図を完成させることになるのですが、第三次の奥羽・羽越測量までの成果から、子午線一度の距離を28・2里と算出し、それが極めて精確な数値として世界的な評価を受けたということです。
わかりやすくいうと、赤道から北極地点までの南北の距離を九〇等分した一度の距離が28・2里、つまり約111キロであることを突き止めたということなのです。
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