ロシア海軍の精鋭艦隊
バルト海艦隊を極東に派遣
日露戦争の真実 日本海海戦の戦略を読み解く 第1回
ロシア海軍は主として旅順とウラジオストックを拠点にした太平洋艦隊、バルト海艦隊、黒海艦隊の3艦隊を保有していた。日露開戦から3カ月後の明治37年(1904)5月15日、皇帝ニコライ2世は太平洋艦隊を第1太平洋艦隊と改称し、バルト艦隊を第2太平洋艦隊として極東に派遣すると発表した。日本ではこれをバルチック艦隊と呼んだ。
司令長官には侍従武官ロジェストウェンスキー少将(10月に中将)が任命された。だが、新鋭艦のなかに建造中のものがあったり軍艦の修理や改装に手間取ったりしたために出港が5カ月も遅れ、リバウ港を発ったのは10月15日だった。第2太平洋艦隊は戦艦7隻、巡洋艦9隻、駆逐艦9隻の25隻だが、艦船を動かす石炭や食糧を積んだ輸送船、工作船、病院船を加えると41隻の大船団になる。総員1万2000人。ひとつの町が海上を移動しているようなものだった。
アフリカの喜望峰を回るコースの場合、日本までは約3万3000キロ。途中、列強の植民地に寄港して石炭や食糧を補給しなくてはならない。が、日英同盟の関係でイギリスの協力は得られない。
乗組員の訓練は行き届かず士気もあがらない。それを裏づけるように早くも10月21日深夜、北海のドッガーバンクでイギリスのトロール漁船団を日本軍の水雷艇と誤認して攻撃するという大失態を演じた。このドッガーバンク事件により、ロシアは6万5000ポンドの賠償金を支払う羽目になる。