日本史の実行犯~あの方を斬ったの…それがしです~
遠藤又次郎・喜三郎 ~日本初の銃暗殺を遂行した兄弟~
大きな爆発音と共に放たれた銃弾は、見事に家親の胸元を貫きました。その場に突っ伏す家親の背後の柱には、又次郎が放った銃弾が突き刺さっていました。『常山紀談』や『備前軍記』などによると、この時の銃痕は、これらが記された江戸時代中期頃までは興禅寺の柱に残されていたそうです。
「喜三郎…家親を確かに撃ち果たしたぞ…!」
「兄上!ようやった!」
家親の死を見極めた又次郎は、喜三郎と共にその場を急いで離れ、元の竹林に隠れました。
備前へ帰ろうとした遠藤兄弟でしたが、再びここで思わぬ事態に遭遇します。
「な、ない…。ないぞ、喜三郎…」
「何がないのです、兄上」
「火縄銃じゃ。どうやら置き忘れてしまったようだ」
「全く、何をしておるのです、兄上は!ここで本堂に戻るのは危のうございます。捨て置きましょう」
「いや、後で『うろたえていたから火縄銃を忘れたのだ』と馬鹿にされるのも悔しい!取りに戻る!」
又次郎は、竹林を飛び出て本堂に駆け出してしまいました。
「あ、兄上ー!」
喜三郎の心配をよそに、又次郎は無事に鉄砲を回収しました。
そして、兄弟共に三村の本陣を抜け出し、宇喜多家の領地の備前に戻ることが出来ました。
直家は大敵の三村家親を撃ち果たしたことを大いに喜び、兄の又次郎に1000石の領地を与え、弟の喜三郎も褒賞を与えました。さらにこの後、又次郎は「浮田」と直家の「家」の名を賜り「浮田家久(うきた・いえひさ)」と改め、喜三郎も官途を名乗ることを許され「遠藤修理(しゅり)」と名を改めています。
直家の死後、遠藤兄弟は宇喜多秀家(直家の嫡男)に仕えました。
しかし、「関ヶ原の戦い」で秀家が改易となると再び浪人の身となり、隠棲したと言われています。そして、どこか危なっかしいところがあった兄の又次郎は慶長9年(1604年)に、兄を支えるしっかり者だった弟の喜三郎は元和6年(1619年)に亡くなりました。
2人の子どもたちは宇喜多家に代わって岡山藩主となった池田家に取り立てられ、戦国のスナイパー「遠藤兄弟」の系譜は明治維新まで脈々と受け継がれました。