ローカリズムと月
「最小限主義の心理学」不定期連載第10回
月
いつも月を眺める窓の前にお団子をお供えして、娘と手を合わせた。
でも、月はすでに沈んでいる。
娘「月はどこ?」
父「もう隠れてしまったみたい」
私はただ、お酒とお団子が食べたかっただけなのだが、儀式として月にお供えして、おさがりをいただきたい。月が夜空に浮かんでいれば良かったのだけど、どこにもその姿はない。
初めてそんな光景を見た娘は、だんごを食べようとする私に対して、
「それ、お月さまのだよね」
と不思議な顔をする。
日本酒が美味しい季節が来た。
しばらく続いていたタパス的な食事から、また和の食事がはじまる。
今日は西暦の11月29日。旧暦で霜月1日(朔日)。
月は新月で、ほぼ姿を隠している。
しかも、朝の6時ごろに姿をあわらすので、夜に観ることができない。
昨夜の食卓には、さばと大根の煮付けが鎮座していたのに、和の気分を盛り上げる月がなかった。少し照明を暗くして、月明かりを楽しみたかった。
しばらく、月を待たなくてはならない。
夕食の時間に、窓のある西側(南東)に月があらわれるのは、12月8日ごろ。
月は出るのをためらいためらい、どんどん遅くなる。
その向きが家の窓から見て、だいたいどのあたりなのかまだわからないのだけど、今後はそれを記憶に留めたいと思っている。
その情報は、私の家だけのローカルな知識で、決して教科書に載ることがない。
ローカリズムだ。
ローカリズム
それにしても、ここには目印がない。
日本のローカリズムの象徴である京都だったら、「この季節は大文字山に月が沈む」といった感じで目印があるのに、吉祥寺のここから山は遠い。
だけども、目印は自分で作らなくてはならない。
パルコの向こう側、井の頭公園のほう、といった具合に。
29日の午後2時現在、屋上で月を探したけれど、空に雲はなく、午後2時現在、月は見つからない。
細すぎるのか、地平線に近いせいなのか、私に知識が足りない。
月が好きなのに、何も知らないのだ。
知らないというのは、この場所と月の関係。
それは、私がここで生まれ育ったわけではないからか。
ここが私の場所だと、心に決めていないのかと、考える。
今日は七十二候で「北風木の葉を払う(朔風払葉)」。
まさに黄色い木の葉が外では舞っている。
寒いので窓を閉め切り、外の音はほとんど入ってこない。
西陽の入る部屋で、和と月のことを考えているだけ。
<ミニマル&イズム>
http://minimalism.jp/archives/1733