西尾仁左衛門 ~日ノ本一の兵(つわもの)・真田幸村を討ち取った男~
日本史の実行犯~あの方を斬ったの…それがしです
、越前松平家の軍勢は大坂城一番乗りを目指して驀進していました。しかし、仁左衛門はこの中にいませんでした。詳しい理由は不明ですが、史料を見るにどうやら「よき敵」を探していたようです。つまり、大坂城一番乗りの武功よりも、名のある武将を討ち取ることを狙ったということです。
大将首を狙った仁左衛門は、馬に乗って真っ直ぐに敵陣の中へ飛び込んでいきました。小高い丘に馬を進めると、朱色の甲冑を身に付けた馬上のよき敵が目に入りました。
「あいや、待たれい!真田の御家中と見え申し候!我は越前松平家鉄砲物頭、西尾仁左衛門である!槍を合わせたまえ!」
仁左衛門が声を掛けて馬を下ると、敵は名乗りを上げることなく馬を下り、静かに槍を構えました。よく見ると、敵は身体にいくつも傷を負っています。それでもなお敵の士気は高く、仁左衛門との槍での戦いが始まりました。しかし、敵の疲れは相当なものがあり、終に仁左衛門は敵を組み伏せ、その首を討ち取ったのです。
(この場所は生國魂神社と勝鬢院の間だと言われ、最期の地と伝わる安居神社よりも500mほど北にあたります)
さて、よき敵を討ち取った仁左衛門でしたが、ここである問題が起きました。
「名のある武士のようだが、誰なのだこの者は―――」
武田家に仕えていた仁左衛門でしたが、自身が討ち取った真田家の敵の名がわからなかったのです。ひとまず仁左衛門は首を持って陣に戻りました。
そこへ仁左衛門の親戚の羽中田市左衛門とその弟の縫殿之丞が陣中見舞いにやってきました。
「此度の戦の首尾はいかがか?」
「兜首を討ち取ってまいったのだが、誰なのかわからんのだ」
仁左衛門は討ち取った首を羽中田兄弟に見せました。すると―――
「な、なんと!この首は真田左衛門佐(さえもんのすけ)幸村殿ではござらぬか!!」
「なんだと!?それは、確かか!?」
「某(それがし)たちは元々、真田家に仕えていた身。間違いございませぬ!」
自分が討ち取った武将が真田幸村だと知った仁左衛門は、家老の本多富正と本多成重(なりしげ)に報告すると、すぐに藩主の忠直の耳に入り、褒美に腰物(刀)を下賜されました。その後、家康と徳川秀忠にその報せが入り、仁左衛門は両御所(家康と秀忠)に御目見えを仰せつけられ、御褒美金と時服を賜っています。
仁左衛門は「大坂の陣」の後、幸村を討ち取った武功から1800石に加増され、年寄(家老)に次ぐ「寄合」の家格となりました。その後も段々と加増され、200石で始まった仁左衛門の禄高は、最終的には3800石となりました。見事に上級武士へ大出世を果たした仁左衛門は寛永12年(1635年)に亡くなりますが、子孫は福井藩に代々重臣として仕え、明治維新を迎えました。
その西尾家には、幸村を討ち取った際に戦利品として得たと言われる幸村愛用の采配や長刀(なぎなた)、兜が家宝として残り、現在まで伝わっています。
また、仁左衛門は幸村を弔うために地蔵を建立しています。それは仁左衛門自身も眠っている孝顕寺(福井県福井市)に建てられ「真田地蔵」と呼ばれました。背面に「大機院」(幸村の法号)が刻まれたその地蔵は現存しており、今は福井市立郷土歴史博物館に寄贈されています。
この地蔵の元々の安置場所は「真田幸村首塚」と伝承されてきました。しかし、実際は幸村の鎧袖を埋葬した場所であり、本当の首塚の場所は別にあると言います。それは福井城下のどこかであると言われていますが、西尾家の一子相伝の秘密になっていて、仁左衛門の子孫以外は誰も知ることが出来ないそうです。