食にこだわりを持つグルメで、実は芸術家に向いていた・吉良上野介義央
歴史上の人物を四柱推命で鑑定! 第7回
12月14日は忠臣蔵の日(赤穂事件の日)。元禄15年12月14日、主君であった、播磨赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の仇討ちをすべく、赤穂浪士47人が吉良邸に討ち入り、吉良上野介義央の首級を上げた。その義央は、人形浄瑠璃や歌舞伎の演目「仮名手本忠臣蔵」を経て、今も悪役と称されるが、義央は本当に嫌味たっぷりの悪い人なのか?四柱推命鑑定を用いて、義央の性格に迫る。
※赤穂事件に関する詳細は、ページの最後をご覧ください。
吉良 義央(よしひさ・よしなか)(1641-1703)
生年月日:寛永18年9月2日
西暦1641年10月6日(グレゴリオ暦)
それでは、上の命式表を見ながら鑑定していく。
・日柱の干支:「乙亥」(きのとい)
これは「冬」の「草花」を表す。冬の寒さに負けず可憐に咲く花がイメージされる。一見弱そうに見えるが、大地に根を張って生きて行こうとする生き様には精神的な強さを感じる。義央は、荒波を立てず誰かに頼って生きたいという一面を持ちながらも、心の奥底に強い精神性を持っていたのかもしれない。
また、「乙亥」は「日座中殺(にちざちゅうさつ)」と呼ばれる、特殊な干支であり、平均的な生き方をするのが難しい、殊に平均的な家庭を作るのが難しいという意味を持つ。つまり、「乙亥」を日柱に持つ人は現代で言うと、離婚の確率が高い、あるいはなかなか結婚できない可能性があり、王道を生きるのが苦手な傾向がある。吉良家は足利将軍の流れを汲む由緒正しき家系。正室に、上杉綱勝(米沢藩第三代藩主)の妹・富子を正室に迎えている。二人の結婚生活がどうであったのかは定かではないが、二男四女を設けていることから比較的安定した結婚生活を送っていたように予測できる。その分、他の部分で不都合、不安定さが生じていたのだろうか?
次に、通変星(つうへんせい)・蔵干通変星(ぞうかんつうへんせい)・十二運星(じゅうにうんせい)を用いて性格を見ていく。
・主星「偏官(へんかん)」:行動的、攻撃的、野性的な星。攻撃性が強く、考える前に行動したり、思ったことを口にしたりしてしまう。義央は、命式表の中に2つの「偏官」を持ち合わせているため、その性質が強まっていると考えられる。
義央の行動について、「岡本元朝日記」によると、「吉良殿は平常有名な横柄人である。また手の悪い人で、方々から物をせびりなされることが多い」と記載されている。(長矩が一人切腹に処された直後だったので、長矩に対する同情が入っている可能性がある)この評判が一般的なものとなり、尾張藩士朝日重章が「鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)」で「吉良は欲深い者なので、内匠頭のやり方が不快で、何事もつけても知らせもせず、内匠頭が間違って恥をかくことが多かった。殿中において御老中の前で内匠頭の饗応の様子を批判したため、内匠頭はいよいよ遺憾に思って座を立ち、その次の廊下で、刀を抜き、吉良の烏帽子ごと頭を切った」というような内容を記したことをきっかけに、この噂が全国に伝えられ、最終的に「仮名手本忠臣蔵」に発展した可能性がある。
「偏官」は、行動的、攻撃的な面を持ち、思いをすぐに言葉にして伝える傾向があるので、相手に対しての当たりが強く、時に威圧的に感じる態度を取ったのかもしれない。その態度が横柄と感じ取られた可能性がある。しかし、「仮名手本忠臣蔵」に登場するような悪人だったかまでは定かではない。
・自星「印綬(いんじゅ)」:とにかく頭がよく冷静沈着な星。忠臣蔵では悪役とされている義央であるが、義央の領地である三河国幡豆郡(はずぐん)では、「名君」と名高い。貞享3(1686)年に築いた黄金堤による治水事業や新田開拓、地元では慕われている。地元、吉良町では、築堤作業を赤い馬に乗って視察する義央にちなんだ、赤馬という玩具が存在するほどである。治水事業や、新田開拓について相当の知識を持っていたものと思われ、勉強熱心だったのであろう。義央は、名代として年賀使者15回、幕府の使者9回務め、計24回も上洛しているが、この数は高家の中でも群を抜いており、高家として優れた技量を持っていたともいえる。冷静沈着に対応することができ、頭の回転のよい人物でなければ為せない務めである。頭が良すぎて、周りの人たちがバカに見えてしまい、バカにしていた可能性は否めない。
・「食神(しょくじん)」:おおらかで明るい、遊び好きの星。そして、食を大切にするグルメの星である。義央の曽祖父、義定の時代から吉良家は「高家」として幕府の儀礼を担当しており、義央も19歳からその勤めを行った。長矩は、朝廷からの施設を接待する勅使饗応役であり、それを万事指南するのが義央の役目であった。義央は、「食神」を持っているため、食に相当なこだわりを持っており、饗応に思い入れを持っていたのかもしれない。
・「傷官(しょうかん)」:芸術面に優れていて、交渉能力が高い星。男性で持っていると、ナイーブになる。義央が、茶道や歌、書道に造詣が深かったことは知られている。茶道については、千利休の孫の千宗旦に学び、宗旦の相弟子・山田宗偏とも親交があった。また、義央が残した和歌として、「名にしおふ今宵の空の月影はわきていとはん雲もなし」「雨雲は今宵の空に懸かれども晴れゆくままに出ずる月影」等が残っている。家柄がよく、若いうちから和歌をたしなんで来たのであろうが、繊細、ナイーブで、芸術に親しむ心を持ち合わせていたのであろう。
・「絶(ぜつ)」:絶は一般に、苦労が多い星である。常に精神的に孤独を感じ、人から裏切られる経験も多い。天才肌の部分はあるが、普通の生活に向かず、気分屋で考えが変わりやすいといった一面も持つ。
・「沐浴(もくよく)」:ロマンチスト、芸術家が多く、自由な生活を好み、思い立ったら何をしでかすかわからない星。浮気性でもある。義央は、生まれながら「高家」として、型にはまった、縛られた生活をしており、他のことをやってみたい、国を出て行きたいという欲を持っていた可能性がある。
・「死(し)」:霊感の星。神通力があり、神道を大切にする。スピリチュアル的な才能を持ち、自分の死後を意識して生活していた可能性がある。
全体を通して見ると、命式的には、上に立つ人間、リーダータイプには見えない。普通の生活が向いていない部分も持ち合わせており、強いて言えば、芸術家や神職が向いているように思う。そんな性格を持っている義央が高家肝煎(筆頭)という大役を務めるには、去勢を張り新しい自分を作り出す必要があったのだろうか?義央の苦悩が垣間見える。
今回の鑑定結果について、当時吉良家とご親戚であった、上杉子爵家第9代目ご当主、上杉孝久氏に見解を伺った。義央の正室・富子は出羽米沢上杉家から嫁いでおり、義央の長男は出羽米沢藩の第4第藩主となっている。「実際の義央と物語とはギャップがあると私も思っており、納得する部分が多かった。お金に汚なかったという話があるが、当時、何かをしてもらったらお金を支払うというのは当然のことであった。現代のコンサルタント業と同様である。集金をするのはある意味当たり前。殊に朝廷のしきたりについて知る人物が少ない中で、義央は重宝がられていたのであろう。朝廷は浮世離れした難しい世界であり、その世界の人たちと付き合っていた義央にとって、周りの武士たちがバカに見えたというのは、ある意味仕方のないことなのかもしれない。」
美談として伝わってきた「忠臣蔵」。その一方で、悪役として語られてきた義央。その裏でこれまで声を上げられなかった人々の思いが募っている。今回の鑑定結果からは、義央の人間味と苦悩が伝わってきた。一人でも多くの人に、作り話によるイメージではなく、吉良上野介義央自身について思いを傾けて頂ければ、これほど嬉しいことはない。