東京裁判を実行することで、アメリカは新たな『戦争犯罪』を犯した
米国人弁護士が「断罪」東京裁判という茶番 第3回
それに合わせて、「米国人弁護士が『断罪』東京裁判という茶番」を12月16日に刊行予定、来日から40年日本を愛し、知り尽くしたケント・ギルバート氏が米国人の視点からみた東京裁判について論じていく。
日本人に、「日本は戦争犯罪を犯した国なのだ」という、罪の意識を植えつける目的で行われたWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)。
戦争の結果、戦勝国と敗戦国が生じたにしても、戦勝国が、一方的に敗戦国を「裁判」で裁くことなどできない。それは、まさに「勝者の裁き」に過ぎず、必ず公平・公正を欠いたものになることは、自明だからである。
ところが日本人は、「勝てば官軍」と言って、それを「仕方がない」ものだと受入れているところがある。日露戦争の『水師営の会見』のように、アメリカが、敗軍の将を讃えてくれると、期待したのであろうか。それとも、『まな板の上の鯉』のごとく、「いさぎよい」日本人の姿を、示そうとしたのか。天皇と皇室制度を守り、国体を護持することだけを最優先としたのか。それら全てが、混在していたのかもしれない。
だが、アメリカの占領軍は、『水師営の会見』の時の、乃木大将とは違っていた。日米開戦時の首相だった、東條英機陸軍大将は、敗軍の将ステッセルのように、丁重な扱いを受けることはなかった。
私は、戦争を美化するつもりは全くない。戦争は、常に悲惨なものである。戦争の本質は、人間同士の殺し合いであり、破壊の限りを尽くすことである。しかし、国家は時に、戦争せざるをえない局面に立たされ、決断を余儀なくされる。人類の歴史とは、戦争の歴史である、と言っても過言ではない。
戦争は、国際法上、いまも合法である。戦争そのものを、犯罪と位置づける努力も、過去にあったが、その努力は、いまだ実を結んでいない。ましてや、第二次世界大戦当時、戦争それ自体は、国際法違反ではなかった。そして、「侵略戦争」は、その定義すらも定まっていなかった。
だから、その時代に、「侵略戦争を行った国」として、日本を「犯罪国家」に、仕立て上げることは、そもそも、国際法的に不可能なのだ。「戦争犯罪」として、裁判で処断できたのは、戦時国際法に対する違反行為、つまり『通例の戦争犯罪』、東京裁判で言えば、B、C級戦犯だけである。
それなのに、東京裁判では「平和に対する罪」と、「人道に対する罪」などという、それまで存在しなかった、事後法をわざわざつくり出してまで、アメリカは日本を裁いた。
罪刑法定主義という、法治主義に欠かせない大原則を、破ったものであり、それこそ正に、無法の誹りを免れない愚行であった。
日本が「戦争犯罪国家」だったのではない。アメリカが、東京裁判を実行することで、新たな『戦争犯罪』を犯したのだ。この国際法違反の罪は、「日本が侵略戦争を起こした」など、という冤罪が晴れたあかつきにも、アメリカを呪縛して逃れさせないことになる。