東西日本を分断する要所? 京の都を防衛的視点で眺める!
東の敵を想定するなら平安京が最適だった!? ●シリーズ③地形で読み解く古代史重要地点
竹村公太郎は、『日本史の謎は「地形」で解ける』(PHP文庫)の中で、この往来の様子を「頸動脈(けいどうみゃく)」とみなし、織田信長が比叡山の僧兵を恐れ延暦寺(えんりゃくじ)を焼き討ちにしてしまったのは、逢坂を比叡山の僧が守っていたから邪魔になったと指摘している。
それだけが理由ではないだろうが、これまでに無い指摘で興味深い。
また竹村公太郎は、叡山(えいざん)の僧兵は天皇の親衛隊で、彼らが壊滅したことによって、「日本文明では天皇の権威と武士の政治権力と宗教の棲(すみ)分けが確立した」というが、ヤマト建国時にすでに、天皇(ヤマトの王)は、祭司王だった。そしてこれも、ヤマト建国の大きな謎のひとつに挙げて良い。
ところで、平城京が捨てられ、長岡京(京都府向日(むこう)市、長岡京市、京都市にまたがる)、平安京が矢継ぎ早に造られた時代は、東北征討が本格化し、また泥沼化した時代でもあった。
その理由は、朝廷が東国を恐れていたことはたしかで、逢坂を城壁に、さらに東の琵琶湖と瀬田川を外濠に想定していたと思われる。
『地形で読み解く古代史』より
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