ヤマト建国の謎、物部氏はどこからやってきた?
黎明期のヤマト建国を考察する ●シリーズ⑤地形で読み解く古代史重要地点
キーになる物部氏
筆者は、ニギハヤヒは 吉備(きび)(岡山県と広島県東部。のちの備前、備後)出身とみる。
物部氏の本拠地(大阪府八尾市)周辺から、三世紀の吉備系の土器が出土していることが大きい。
もうひとつ、物部氏が西側からやってきたと思うのは、古代の大阪を支配し、さらに奈良盆地の西側一帯をおさえているからだ。大阪府枚方市には磐いわ船ふね神社が鎮座し、ニギハヤヒが乗ってきた天磐船が巨大な磐座(いわくら)となって祀られている。
このなだらかな峠を越えれば、奈良盆地だ。その先には、矢田坐久志玉比古(やたにいますくしたまひこ)神社(大和郡山市矢田町)が鎮座し、ニギハヤヒが天磐船から矢を三本射て、その一本がこの地に墜ちたと伝わる。
蘇我系の聖徳太子が建立した法隆寺の一帯(斑鳩(いかるが))も、元々は物部系豪族の土地だ。
奈良盆地の西側の入口をことごとく物部氏がおさえているように見える。
『日本書紀』の神武東征の場面で、神武天皇もニギハヤヒも「天神 (あまつかみ) の子」と記され、だからニギハヤヒは神武天皇に王権を禅譲したと記されるが、これにはカラクリがある。
ヤマトの王は祭司王であり、かたや物部氏は、もっとも重要なヤマト周辺の拠点を、しっかりおさえている。ニギハヤヒは名を捨て実をとったのだった。
そして、天皇は物部氏の祭祀形態を継承したのではないか、とする説があり(吉野裕子『大嘗祭』弘文堂)、事実他の豪族にはけっして見られない形で、物部氏は王家の祭祀に深くかかわっている。
物部氏の呪文「 一二三四五六七八九十布瑠部由良由良止布瑠部(ひふみよいむなやことふるべゆらゆらとふるべ)」も、天皇家は受け容れている。