ヤマト建国の謎、物部氏はどこからやってきた?
黎明期のヤマト建国を考察する ●シリーズ⑤地形で読み解く古代史重要地点
物部氏は、ただの古代豪族ではない。
ここで注目しておきたいのは、ヤマト建国の象徴となった前方後円墳のことだ。いくつかの地域の埋葬文化が寄せ集められて、あの独特な墳墓が生まれたのだが、吉備の影響力がもっとも強かった。
前方後円墳の原型は、まず吉備に出現していたのだ。
ヤマト建国の直前、吉備に楯築弥生(たてつきやよい)墳丘墓(岡山県倉敷市。双方中円式(そうほうちゅうえんしき)墳丘墓)が出現していたが、これは円形の墳丘の左右に方形の出っ張りが付け足されたもので、片方の出っ張りを削れば、前方後円墳になる。
また、楯築弥生墳丘墓の墳丘上では、特殊器台(とくしゅきだい)形土器と特殊壺(つぼ)形土器が並べられたが、この土器も、前方後円墳で採用されている。物部氏の本拠地・八尾市でみつかったのが、この吉備の特殊器台形土器だ。
物部氏が吉備出身で、しかもヤマトの祭祀の中心に立っていたにちがいないのである。
『地形で読み解く古代史』より