日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~ 吉良上野介を突き伏せた孟子の子孫
日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~【武林唯七】
一番の武功を取られてしまった
そこに駆け寄ってきた間十次郎(はざま・じゅうじろう)がその首を斬り落とし、その炭で汚れた額を拭い傷の有無を確認しました。すると、そこには額にまで届きそうな傷が確かにあり、背中を見ると、そこにも浅野が斬り付けた刀傷が残されていました。
「主君、浅野内匠頭の仇、吉良上野介討ち取ったりー!!!」
浪士の中で大きな勝鬨が挙がりました。間十次郎が吉良の着ていた白の小袖に首を包み、屋敷内の井戸まで運び首を洗いました。この時に使用された井戸は、現在も「本所松坂町公園(吉良邸跡)」に残されています。
その後、吉良邸を後にして泉岳寺へ向かう時、吉良の首を掲げたのは間十次郎でした。吉良を突き殺した唯七でしたが、首を十次郎に取られてしまったため、一番の武功は十次郎になってしまったのです。首を取ったことを周囲に自慢する十次郎に対して唯七はこう言ったそうです。
「私が突き殺した死人の首を取ったのは大したことではない! 皆に証人になってほしい!」
唯七にしてみたら、手柄を横取りされ悔しいことだったことでしょう。この後に切腹などの厳しい処分が待っていることをわかっていながら、功名を求めるというところに武士の矜持を垣間見ることが出来ます。泉岳寺にたどり着き、浅野の墓前に首を供えると、内蔵助は一番に十次郎に焼香をさせ、二番に唯七に挙げさせたそうです。
兄を想う辞世の詩
その後、唯七は毛利家に預けられ、元禄16年(1704年)2月4日、江戸幕府の命により切腹をして亡くなりました。享年32。戒名は「刃性春劔信士(じんしょうしゅんけんしんじ)」でした。亡くなる前、明にルーツを持つ唯七らしく赤穂浪士で唯一、漢詩を詠んでいます。
「三十年来一夢中 捨身取義夢尚同 双親臥病故郷在 取義捨恩夢共空」
(人生三十年あまり、身を捨て義をとれば今なお同じ。両親は病に臥せて故郷に在る、義をとり恩を捨てるは空虚なり)
この詩は、両親の病の看病のため決行に加われなかった兄を想って詠んだものだと言われています。主君への義と両親への恩の狭間で悩み、また、恩を取ってくれた兄への感謝の気持ちが込められているように感じられます。
その後、兄の「渡辺」尹隆は姓を改めます。新たな姓は「武林」。弟の意志を継いだ兄によって、武林の名はその後も広島藩に残されることになりました。