【『真田丸』終了】乱世から平和へ……天下統一と戦国の城の変化
『真田丸』戦国軍事考証の西股総生先生が語る、戦国の城の最後
軍事基地から領地を治めるための市役所へ
一方、大名たちの軍隊は、統一政権軍のひとつの部隊になるわけだから、政権からの命令があれば、すぐに出動できるように準備しておかなくてはならない。実際、真田昌幸も上杉景勝も徳川家康も、秀吉の北条攻めに動員されている。
すると、今まで敵の攻撃を防ぎやすい山の中に居城を持っていた大名たちは、動員がかかったらすぐに動けるように、開けた土地に引っ越すようになる。開けた土地の方が、大きな街道が通っていたり、川船を利用して物資を運んだりしやすいからだ。
それと同時に、今までそれぞれ自分の領地に住んでいた家臣たちを集めて、大名の居城のまわりに住まわせるようになる。こうして、大きな盆地のまん中や、平野の中の川に面した場所、あるいは海辺などに、新しい時代の城と城下町ができてゆく。
真田昌幸が平城の上田城を居城にしたり、山の中の吉田郡山城にいた毛利輝
元が、太田川の河口近くに広島城を築いたりするのは、こうした流れの中で起きたことだ。
近世の城に平城や平山城が多いのも、このためであって、別に山城が旧式に
なったわけではない。戦争に備えて前線に築かれていた城が用済みになって、大名の居城だけが残っていったから、後の時代のわれわれから見た時に、山城がすたれたように見えるわけだ。
さて、秀吉や家康によって全国が統一されると、日本国内の戦争はおしまいである。大名の居城以外の城は全部、用済みだ。大坂夏の陣で豊臣氏が滅んだ後に、徳川幕府が元和の一国一城令を出して、居城として使っている城以外は原則として全部壊すよう、大名たちに命じたのも、このためだ。
こんな中で、幕府に断りもなく城づくりをはじめたら、謀叛の準備でもしているのかと疑われるのは当然だ。大名本人の居城だって、統一政権軍の戦略基地として存続が許されているわけだから、勝手に城の増強工事をするわけにいかなくなる。
こうして、城は戦争のための軍事基地から、領地を治めるための役所になっていった。ただし、城そのものは、敵に攻め破られないようにつくってあるから、役所や御殿として使うには手狭なことも多い。
江戸時代になると、多くの大名たちは城の外に広い御殿をつくって、そこで生活や政治を行うようになる。平和な時代、城はだんだん地域のシンボルのような存在になっていった。
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