マッカーサーの運命を決定づけた演説があった
マッカーサーとGHQの戦後改革とアメリカのポピュリズム(後編)
マッカーサーにとってのフロンティア
マッカーサーに、その本懐とするところではない「リベラル」な急進的改革を実行させたのは、生い立ちとその後の経歴から生じた特有のパーソナリティ、そして歴史が彼に担わせた運命によるところも大きい。
マッカーサーの父アーサー・マッカーサー(1845~1912)は、南北戦争に義勇兵として参加し、若干19歳にして名誉大佐の称号を得るなど、軍の英雄の一人として知られていた。一家の三男ダグラスが生まれた頃、マッカーサー家は開拓時代末期の西部で「インディアン」との戦いのために各地の砦を転々としていたという。マッカーサーは、自分にとっての一番古い記憶はジェロニモの襲撃と戦いながらの行進だったと回想している。
1898年にスペインとアメリカの間で、植民地支配を争うための帝国主義的な米西戦争が起きると、アーサー・マッカーサーはフィリピンに出征して活躍し、続いてフィリピン独立勢力との間に起きた米比戦争ではフィリピン駐留アメリカ軍の司令官となる。
米西戦争を巡っては、当時部数を大幅に伸ばしていた一般大衆向けの新聞が、部数獲得のために植民地におけるスペインの暴虐行為を扇情的な見出しやプロパガンダ記事で煽り、アメリカの一般大衆の道徳心を刺激することで、開戦への世論に影響を与えていた。民主党や知識人、財界人による帝国主義的拡張への反対論もある中で、当時のウィリアム・マッキンリー大統領(1843~1901)は次のように述べたという。
「フィリピン群島の将来はいまや米国民の手ににぎられている。米国民は自由を愛し、自国の政府と制度に固い信念をもっているのだから、フィリピン人に対しては自尊心と自治の獲得をめざしてあらゆる支援を与えるつもりであることを知らせる義務をもっている。われわれのもつ貴重な諸原則は、熱帯の太陽の下でもいささかも変わらない。これらの原則には“自由な者による征服は救いなり、との不変の真理をなぜ読まないか”との教えに裏付けられている」
青年期にこの演説を聞いたマッカーサーは『回想記』において「この演説に筆舌に尽くせないほどの深い感銘を受けた。しかし、その後五十年近くもたって、この演説が、敗れた敵国の占領に当る私の行動の指導的な規準となろうとは、当時夢想だにしなかった」と記している。
ウェストポイントの陸軍士官学校を主席で卒業したマッカーサーは、工兵隊の少尉としてフィリピンに赴任し、父と共に日露戦争直後の日本を訪れたり、東アジアから東南アジアにかけての視察を行った。回想によると、この時期、東郷平八郎、乃木希典、大山巌といった日本の将軍と面会し、大きな感銘を受けたようだ。また、当時外務省に勤めていた幣原喜重郎(1872~1951)がアメリカの外交官を見送るために横浜の波止場へ行くと、その外交官から青年将校だったマッカーサーを紹介され、二言三言会話したという。後年、幣原とマッカーサーは首相と連合国最高司令官として会談し、憲法に平和主義を盛り込む旨を合意することになる。
陸軍参謀総長を辞した1935年、マッカーサーは、独立に向けて国防軍を創設するフィリピンに軍事顧問として赴任することとなる。だが、参謀総長というキャリアのトップを既に終えた身であるため、なかば退役したようなものであった。そのような存在のマッカーサーが、フィリピンのバターン半島とコレヒドール要塞で戦い、オーストラリア撤退後も“I Shall Return”を標語に掲げ、やがて厚木に降り立ち日本を統治することになることを考えると、マッカーサー本人にとって、フィリピン、極東、日本との縁は運命的なものであると感じられたことだろう。
マッカーサーがまだ少年だった1890年代には、アメリカのフロンティアが消滅した。文明がヨーロッパからアメリカ東岸へ到達し、アメリカ大陸を西へ向けて進んでいくとする「マニフェスト・デスティニー」も、太平洋岸で行き止まりにたどり着いたのである。そんな時代の中、アメリカはさらなるフロンティアをキューバ、ハワイ、フィリピンなどに求めていった。
「インディアン」との戦いが日常的だった西部開拓期に少年時代を過ごしたマッカーサーにとって、現地民のゲリラとの戦いが続くフィリピンの空気は性に合っていたのだろう。アメリカにとって未開のフロンティアであるフィリピンに、そして焼け野原となった戦後日本に、自由と民主主義を根付かせることは、マッキンリーの演説に感銘を受けた彼にとって、運命的な使命であった。だが、そのマッキンリーの理念と、アメリカの大衆が熱狂した米西戦争、米比戦争の背景には、愛国的な「ポピュリズム」があったのである。
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