島田一郎 ~維新三傑・大久保利通を暗殺した男~
日本史の実行犯~あの方を斬ったの…それがしです~
「此度こそは挙兵を!」
島田は各地を奔走し、出羽庄内の同志の力を借りれば挙兵できるところまでこぎつけました。しかし、島田は最終的にこれを断ってしまいます。
「どうして庄内人などの力を借りる必要があるのだ!」
石川県人の力を過信していたきらいがある島田は、この挙兵を同郷の同志だけで行いたいと考えていたようです。これは加賀藩(版籍奉還後に「金沢藩」と改められる)が戊辰戦争や明治維新の際に大きな功績がなかったという負い目が島田にあったためだと考えられます。結局、この時も挙兵に失敗しました。
そして、不平士族の拠り所であった西郷の死によって追い詰められた島田は、挙兵ではなく要人暗殺に方策を転じることになります。島田は士族を政権から追いやった政府の要人たちが、私権を揮って国家を悪い方向へ導いていると信じて疑わなかったようです。
「この度、西郷さんが2人の佞臣(ねいしん)のために倒されたことを自分は耐えられない!ゆえに自分はこの両人を殺害したい!」
島田は近い人物にこう述べたと言います。島田の言う2人とは「維新三傑」の木戸孝允と大久保利通でした。しばらくすると木戸は病死したため、島田の標的は大久保ただ一人となります。
「国家のために大久保参議を殺害するつもりなり!」「大久保参議を斬る所存なり!」
島田は同志を募るため奔走し、暗殺計画を包み隠さず話したと言います。また島田は、計画の事に関して以外にも自分の個人的なことを飾らずに話すような人物だったそうで「誠に愉快な人」と後に評されています。
明治11年(1878年)3月25日、島田はいよいよ東京に向けて金沢を出発しました。出発にあたって、離縁した妻に遺書めいた長い手紙を書き、十首の歌を付しました。そして、その他にも多くの歌を残しています。その内の一首は、特に死を覚悟した内容になっています。
「かねてより 今日のある日を知りながら 今は別れと なるぞ悲しき」
4月上旬、島田は東京に到着し、四谷の林屋(現・四谷中学校の校庭)を宿舎として、5人の同志と共に大久保の人相や動向を探りました。5人の同志とは島田と同じく加賀藩士であった長連豪(ちょう・つらひで)、杉本乙菊(すぎもと・おとぎく)、脇田巧一(わきだ・こういち)、杉村文一(すぎむら・ぶんいち)と、鳥取藩士であった浅井寿篤(あさい・ひさあつ)でした。
入念な探索の結果、大久保は4と9のつく日に出勤することがわかり、乗車する馬車や経路も把握することが出来ました。5月7,8日に再び林屋に集まると、決行日を5月14日と決定しました。
決行するにあたって島田は犯行表明と取れる「斬奸状(ざんかんじょう)」を知人に依頼して作成しました。そこには政府に対する5つの罪状が列挙されていました。
其一、公議を途絶し、民権を抑圧し以て政治を私す
(国会や選挙を開設せず、民権を抑圧している)
其ニ、法令謾施、請詫公行、恣に威福を張る
(法令を頻繁に出し、また官吏の登用に情実が使われ、私腹を肥やし威張っている)
其三、不急の土木を興し、無用の修飾を事とし、以て国財を徒費す
(不要な土木事業により、国費を無駄遣いしている)
其四、慷慨忠節の士を疏斥し、憂国敵愾の徒を嫌疑し、以て内乱を醸成す
(忠義ある志士を排斥して、内乱を引き起こした)
其五、外国交際の道を誤り、以て国権を失墜す
(外交政策の誤っているため、国威を貶めている)
大久保は新政府を確立するためには30年はかかると考えていましたが、そういった長期的な考えは島田などの不平士族には届かなかったようです。
そして、時は明治11年(1878年)5月14日を迎えます―――。