島田一郎 ~維新三傑・大久保利通を暗殺した男~
日本史の実行犯~あの方を斬ったの…それがしです~
午前7時30 分頃、島田を含む6 人の刺客は斬奸状を懐に入れ、林屋を後にしました。かねての打ち合わせ通り、2,3人ずつ分けて歩き、無地の羽織を身にまとった島田は少し後から遅れていったと言います。
間もなくして、6人は暗殺決行の場所にたどり着きました。その場所は、紀尾井町清水谷にある北白川宮邸(現・東京ガーデンテラス紀尾井町)と壬生邸(現・ホテルニューオータニ)に挟まれた、人通りの少ない細い道でした。
島田は、前日に石橋の下に竹筒に入れて隠しておいた長刀を手にした後、身を隠して大久保の馬車をじっと待ちました。
午前8時頃、大久保は霞ヶ関の私邸を出て赤坂の仮皇居へ向かいました。馬車は赤坂御門前で右に入って紀尾井町へ進み、いよいよ島田が待つ道へ差し掛かりました。
馬車が石橋を渡るや否や、馬車の右手側にあたる北白川邸の草むらから、刺客の内の2人が馬車の前に現れ、馬丁の静止を無視して隠し持っていた刀で馬の脚を斬り付けました。この一刀は失敗しましたが、第二刀を浴びせて馬車を止めました。これとほとんど同時に、島田は背後から馬車に駆け寄ります。
御者は切り捨てられ、馬丁は助けを求めにその場を脱出しました。
残るは大久保利通、ただひとり―――。
大久保は馬車内で書類を読んでいましたが、襲撃に気付き、左側からの扉から脱出を試みました。しかし、その扉の外には島田が待ち構えていました。島田は自ら馬車の扉を開き、左手を伸ばして大久保の右手を力いっぱい掴みました。
「無礼者!」
大久保が一喝しましたが、それを遮るように島田は大久保を斬り付けます。
その一刀は大久保の眉間を斬り割き、続いて大久保の腰に刀を突き刺しました。さらに、反対側の扉に駆け付けた刺客も、扉を開けて大久保を斬り付けました。
この時の大久保の様子を「余を睨みし顔の凄く恐ろしさ。何とも言われぬ面色は今に忘れず」と島田は後に振り返っています。
馬車の中にいる大久保を斬り付けた刺客は、大久保を馬車から引きずり出しました。重傷を負っていた大久保は、なおもよろよろと歩いたと言います。島田はふらつく大久保を斬り捨て、大久保はとうとう力尽きました。
「首は取るな。武士は止めを刺すのが礼だ」
首を持っていくことを制した島田は、最後に短刀で大久保の喉を突いたといいます。時刻は午前8時30分頃。あっという間の出来事でした。
島田は暗殺直後の様子を後に振り返っています。
「この時、声が嗄れて喉が渇き、動悸が強くその場に倒れそうになった。何とか気を取り直して、ようやく傍らの溝へ這い寄り水を飲んで喉を潤し、人心地になった」
相当な興奮状態にあったようです。この時の湧き水は涸れてしまったそうですが、「清水谷公園」の前には当時の湧き水が復元されています。
また、この事件は一般的に「紀尾井坂の変」と呼ばれていますが、実際は紀尾井坂ではなく、その200mほど手前で起きています。しかし、事件直後から「紀尾井坂」が暗殺現場の地名の「紀尾井町」と混用され、誤った方の「紀尾井坂」が定着してしまったと言われています。
暗殺を終えた島田一行は、赤坂の仮皇居に向かい、守衛に対して声高にこう述べたそうです。
「拙者どもは只今、紀尾井町において大久保参議を参朝の途中に待ち受けて殺害に及びたれば、宜しくこの旨を申し通じ、相当の処分を施されよ」
すると、守衛は名前を尋ねてきました。それに対して島田は「委細、この如くだ」と懐の斬奸状を指し出しました。斬奸状に目を通した守衛が「まだまだ同志の者があるか」と尋ねると、こう答えたと言います。
「左様でございます。国民三千万人の内、官吏を除いた外は皆同志であります」
その後、島田らは鍛冶橋の監獄に送られました。そこで島田は息子の太郎に対して訓言を残しました。そこには「忠孝・文武の道を忘れないこと」「正邪を明らかにすること」「母を大切にすること」など、武士としての心構えが記されています。
そして、それから約2週間後の7月27日に国事犯である島田に対しての判決が下されました。判決は斬罪。判決直後直ちに処刑が行われました。享年は31でした。
吉田松陰の首も斬り落とした斬首役の山田浅右衛門が、島田の首を落とす前に「何か申し遺すことはあるか」と尋ねました。すると島田は無造作に首を振り「いや、この期に及んで何も申し遺すことはなし」と泰然自若としていたため、浅右衛門がその姿に思わず感じ入ったと言います。
島田たちが暗殺の際に使用した刀の一振は「警視庁」に保管されており、襲撃の激しさを物語る刃こぼれなどを現在でも見ることが出来ます。また、大久保が乗っていた馬車も現存しており、岡山県倉敷市の「五流尊瀧院(ごりゅうそんりゅういん)」に襲撃時の血痕や刀傷などを目の当たりにすることが出来ます。