河上彦斎 ~幕末の兵学者・佐久間象山を暗殺した男~
日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~
何とか応戦しようと抜刀した象山でしたが、その隙に彦斎は二太刀目を振り下ろしました。
駆け付けた松浦、前田も斬りつけ、象山は絶命しました。
暗殺を遂げた彦斎は、祇園社の前に今回の天誅の理由を述べた「斬奸状(ざんかんじょう)」を掲げたと言われています。
松代藩 佐久間修理(象山)
この者、元来、西洋学を唱え、交易開港の説(開国論)を主張し枢機(政権)の方へ立入り、御国これを誤り候。大罪、捨て置きがたく候処。あまつさえ(加えて)近日、奸賊・会津彦根の二藩へ与同し、中川宮と事を謀り、恐れ多くも九重(ここのえ:天皇)、御動座、彦根城へ移し奉り候儀を企て、昨今しきりに、その機会を窺い候。大逆無道、天地に容るべからざる国賊につき、すなわち今日、三条木屋町において天誅を加へ畢(おわ:終)る。
但し、斬首・梟木(きょうぼく:さらし首を掛ける木)に懸く(架ける)べきの処、白昼につき、その儀あたわざる(出来ない)もの也。
元治元年七月十一日
皇国忠義士
「西洋学を唱えること」「開国論を主張すること」「国の方針を誤らせていること」「天皇の御動座を企てたこと」が、尊攘派の彦斎たちにとって「大逆無道」「国賊」と映り、「天誅」を加えたことがわかります。また、白昼の出来事であったことから、斬首をしてさらし首に架けることが出来なかったとも記されています。
さて、『人斬り彦斎』の異名を取った彦斎ですが、実際に記録に残っている人斬りは象山だけです。そして、これが最後の人斬りとなったと言われています。彦斎は象山暗殺を後にこう振り返りました。
「余人を斬る、なお木偶人(もくぐうにん:人形)を斬るがごとく、かつて意に留めず。しかるに象山を斬るの時において、はじめて人を斬るの思いをなし、余をして毛髪の逆竪て(逆立て)に堪えざらしむ。これ、彼(象山)が絶大の豪傑なると、余の命脈すでに罄く(つく:尽きる)の兆(きざし)にあらざるなきを得んや。今より断然、この不詳的の所行(人斬り)を改めて、まさに象山をもって、その手を収めんのみ」
象山を斬る時に、象山の豪傑さゆえに髪の毛が逆立ち、初めて人を斬る思いが生じたそうです。そして、これは自分の命が尽きる前兆であると感じ、これ以降、人斬りを止めたといいます。
彦斎は、この暗殺の8日後に起きた「禁門の変」に長州軍として参戦しますが、敗戦し、長州軍と共に再び京都を落ち延びます。しばらくの間、身を隠していた彦斎ですが、高杉晋作が「奇兵隊」を組織して挙兵すると、これに呼応して一隊を組織して参戦します。そして、慶応2年(1866年)の「第二次長州征伐」では長州軍として戦い、幕府軍に勝利を収めています。
その後、時局に乗りきれない佐幕派の熊本藩を説得するために帰藩しますが、彦斎の尊攘活動を警戒した藩によって、彦斎は捕えられて1年半ほど投獄されてしまいます。そのため「大政奉還」「王政復古の大号令」「戊辰戦争」などの時期は獄舎で過ごすことになりました。
しかし結局は、尊攘派の勢力によって倒幕が成し遂げられたことから、藩は慌てて彦斎を解放します。解放された彦斎は、明治元年(1868年)から尊王について遊説するために中山道や東北地方の諸藩を回りました。この時、藩主の勧めで名を「高田源兵衛(こうだ・げんべえ)」、後に「高田源兵」と改めています。
この遊説の途中、象山の故郷である松代藩に立ち寄った時の逸話が残されています。彦斎は宴席で、一人の松代藩士に「当藩には佐久間象山という先覚者がいました。しかし、貴藩の河上彦斎に暗殺されました。その息子の恪次郎(かくじろう:別名「三浦啓之助」=元・新選組隊士)は仇討ちのために国を出ています」と言われました。
すると、彦斎は「私は河上彦斎をよく知っています。たいへんな腕前ですが、息子の本懐を遂げさせてやりたいものです」と眉ひとつ動かさず、冷静に返したと言われています。
ひたすらに尊王攘夷を説きまわった彦斎ですが、時代とは全く逆行していました。同志であった長州藩を中心とした明治新政府や朝廷は、方針を「開国」に変えてしまったのです。
彦斎はこれに激怒し、さらに尊攘活動を行おうとしますが、明治2年(1869年)に熊本藩の飛び地である鶴崎(大分県大分市)に左遷されてしまいます。これは、新政府に危険視される人物を熊本に置いておくわけにはいかなかったためであるようです。
鶴崎に移った彦斎は、兵士隊長を務める一方で兵士たちを教育するための学校「有終館」を設立し、兵法だけでなく、国学などについて教育を始めました。
しかし、ある時、奇兵隊脱出騒動の首謀者として長州藩から追われる身となった、同志の大楽源太郎(だいらく・げんたろう)が有終館に逃げこんできました。「一緒に挙兵をしてくれないか」という願い出を彦斎は断ったのですが、源五郎を匿ったことで、彦斎は鶴崎の兵士隊長の任を解かれて熊本に戻ることを命じられ、有終館は解散となってしまったのです。
熊本に帰った彦斎は大楽を匿った罪で、再び投獄されてしまいます。そして、裁判を行うため、間もなくして東京へ護送されることになりました。
熊本を離れる際、彦斎は次のような一首を詠んだと言われています。
「火もて 焼き水もて 消せど変わらぬ わが敷島(しきしま)の 大和魂」
自分の熱い信念は変わることはないという、彦斎の想いが込められています。
吉田松陰なども投獄された小伝馬町の牢屋敷に送られた彦斎を担当した裁判官は、かつて勤王の同志であった岩国出身の玉乃世履(たまの・よふみ)でした。
維新三傑の木戸孝允(きど・たかよし)から欧米視察前に「彦斎は一世の豪傑であるが、このまま放置すれば必ず国家に害をなす。帰ってくるまでに始末しておいてくれ」と言われていた玉乃は断罪を下すに忍びないと思い、彦斎を呼び出してこう説得したと言います。
「貴兄の気持ちはわかるし、それも一理はあるが、すでに今日は時勢が一変しています。どうぞ現政府のなすところに協力して下さらぬか。小官(玉乃)は切に国家のために、そして貴兄のために心から勧めたい」
彦斎は玉乃の言葉に対して、こう答えたと言います。
「御厚意ありがとう。しかし、自分の尊攘の志は、神明に誓い、同志と約し、死生必ず背くまいと誓ったものである。しかして同志の多くは、この誓約のもとに殉じていったのである。今日に及んで、生命を惜しんで、その約に背き、志を改めたら自分はどうなるだろう。ああ、時勢が一変したのではござらぬ。政府の諸君が自己の安逸を願って尊攘の志を捨て『時勢が変わった』というのである。自分は徹頭徹尾一身の利害のために素志(そし)を改め、節を変えるなど、そんなこと出来申さぬ」
明治4年(1872年)12月4日―――。
彦斎は日本橋の小伝馬町にて斬首されました。享年38でした。
漫画「るろうに剣心」の主人公の緋村剣心は、この彦斎がモデルであると言われています。