何もなかった無名時代。マーリンズ田澤純一「野球を辞める覚悟で渡米した」
社会人時代には「クビ」とも言われた――メジャーで活躍する田澤の知られざる覚悟。独占インタビュー後編
■「プロ? 行けるわけがない」と言われた高校時代
――成績は素晴らしいものがある。もう少しメディアでも取り上げられていいと思うくらいに。メディアの人間が言うのはおかしいのですが。
田澤 うーん……。僕は……日本の球界に行っているわけではないですしね。そもそも自分が成長できる道はアメリカなんじゃないか、と思ってアメリカに来たわけですが、ボストンに契約をしてもらった時点で3年やって(3年契約だった)ダメだったら違う仕事をすればいい、という覚悟はありました。だから、まだ野球ができるっていう喜びが勝るのかもしれませんね。
――覚悟。
田澤 そうですね、ダメだったら、野球をやめても……、はい。振り返ってみれば、そもそもエネオスに入れたこと自体が偶然だった。僕は高校から就職志望だったんです。大学進学は考えていなかったので、野球でダメだったら就職をするって決めていました。たまたまエネオスからオファーがあってお世話になりましたけど、オファーもこのひとつです。しかもエネオスが名門だっていうことすら知らなかったくらいでした。
――そうだったんですか。
田澤 高校時代(横浜商科大学高校)の監督が東芝出身の方だったので、東芝は知っていたんですけど……。そういえば、そんな縁もあって高校時代に一度、東芝の練習に参加をさせてもらったことがありました。でもまったく歯が立たなかった。高校時代の僕は全然ダメだったわけです。
だいたいプロに行く選手って平均してずば抜けているじゃないですか。ピッチャーだけど打てる、脚が速い……僕の場合、脚も速くなかったですし、バッティングに関しては練習試合でDHを使われるレベルでした。僕に打順を使うくらいなら、怪我などで守備はできないけれどバッティングはできる、という選手の調整ために使った方がいい、ということです。実際、高校野球最後の夏も、涌井(秀章/千葉ロッテマリーンズ)がいた横浜高校にボコボコにされた(3対16で敗退)。
だから進学を考えていない時点で就職をしようと。
――NPBは考えなかった。
田澤 いや、もちろん行きたかったですよ。小学校のころからの憧れでしたから。でも涌井というすごいピッチャーがいて、それに全然歯が立たないのだからちょっと無理かな……という思いのほうが強かったです。一応、最後の夏が終わってからも練習はしていたんです。進路を考えなければいけないときに、高校の監督に呼ばれて「プロ志望届けを出すか」と聞かれたんですけど……ここからは笑い話で、聞かれたもんだから僕は「プロに行ける可能性あるんですか?」って質問するわけです。そうしたら「お前が行けるわけないだろう」って怒られました(笑)。
――はははは。
田澤 それでエネオスから話があると聞いて、じゃあぜひお世話にならせて下さい、と。エネオスの話がなければ、僕は野球をやめて就職をしていたはずです。本当に救われたし、エネオスに出会えたことは感謝以外の言葉が出てこないです。今もオフになったらグラウンドを貸していただいて、練習をさせてもらいますし、何よりみんな変わらず接してくれる。僕を応援してくれる。本当に良かったと思います。
――しかし、この選択が結局いろいろな転機を生んだと言えますね。
田澤 はい。社会人3年目にもプロに行くかどうかで悩んだ時期がありました。スカウトの方もちょっとずつ来てくれている状態で、可能性はあったんです、高校時代より(笑)。ただ「自分が通用するのか」という思いのほうが大きかった。社会人野球ってプロの2軍と練習試合をさせてもらえる機会があるんですけど、僕、いとも簡単に打たれていたんです。ロッテとの試合では当時西岡剛さんとかがいらっしゃって、ポコポコ打たれて……。ワンバウンドしそうな球までヒットにされたりするので、これは通用しないんじゃないかって。
――社会人では抑えられているのに。
田澤 そうですね。それで大久保監督と相談をしてもう1年エネオスに残ることにしました。それが今につながったんですけど、もし1年残るのであれば、アマチュアの日本代表に選んでもらえる、という話があって、実際に行けた。そしたらその試合にボストン・レッドソックスのスカウトが偶然来ていて、注目してもらえた。残ったからこそ今があるわけです。
――なるほど。プロから注目が集まったのも社会人3年目くらいからでしたよね。
田澤 はい。というか、僕は社会人2年目でクビだったんですよ。