作家・柳美里を「死んだら、人間はどうなるのか」と思わせる本
第5回「柳美里書店の10冊」
家族の形見としての「家族写真」
わたしにとって、家族写真というのは特別なものでした。それは苦痛の記憶です。
わたしの父は写真が趣味で、ニコンの一眼レフカメラを何台も持っていました。家族写真を撮影したいがために、思いついたように家族旅行に行こうと言い出すのです。たとえば、断崖絶壁の海で青空を背景にして家族を撮りたい、というような絵が父の頭の中には、あらかじめできあがっているのです。その絵に基いて、父は旅行先を決めていました。いわゆるスナップ写真ではないので、父の思い通りの構図で撮影するために、「もう少し手を挙げて」「二人の場所を入れ替えてみよう」などという指示が延々と続く。被写体と化した時の強張りと不快感は、今でも体の中に残っています。
父自身の家族も崩壊していたので、父は家族の形を知りません。きっと父にとっての家族というのは、写真の中にしかなかったのではないかと思います。
わたしも息子が生まれてからは、写真を撮るようになりました。赤ちゃんは短期間に劇的に変化する存在ですから、生まれて三ヶ月もしたら元の姿とはまったく異なってしまいます。特に『週刊ポスト』に「命」を連載していた時は写真を撮ることに熱中していて、息子のアルバムは2年で40冊を超えています。
今回紹介する本は『明るい部屋』です。『命』には、次の言葉を引用しています。
「『写真』とは、『ほら』、『ね』、『これですよ』を交互に繰り返す、一種の歌にほかならない。『写真』は何か目の前にあるものを指すのであって、そうした指呼的な言語活動の域を脱することができない。」
この本は、すべての言葉に余剰がなく、精緻で論理的で美しいのだけど、悲しみという感情に満ち溢れています。ロラン・バルトは、最愛の母親を亡くした耐え難い悲しみを、写真論に変換したのです。亡き母親に捧げた一冊の追悼文と言えるのかもしれません。
「写真を撮られるとき、私ががまんできる唯一のもの、私が愛し、親しみを覚える唯一のものは、奇妙なことに、写真機の音だけである。私にとっては、『写真家』を代表する器官は、眼ではなく(眼は私を恐怖させる)、指である。つまり、カメラのシャッター音や乾板をすべらせる金属音(写真機にまだ乾板が使われているなら)と結びつくものである。」
この、バルトの被写体になった時の経験に基づく言葉によって、家族写真の被写体になった幼い頃の記憶が、いくばくかの懐かしさをともなって呼び起こされます。
昔は、写真を撮られると魂を抜かれる、と恐れられていました。それはある意味で事実かもしれません。写真に映った人は必ず死ぬからです。写真は動いているものを静止させます。
家族写真とは、家族の形見なのです。
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