性的指向? 性的不能? 上杉謙信が「生涯不犯」だったワケ。
宗教が原因だった説
この和歌で示唆された「宗教戒律説」はどうだろうか。
仏法への帰依と人格形成を志すとともに、軍神( 毘沙門天や飯綱明神)に功徳を求めて、「不邪婬」の戒律を守ったという説である。
江戸時代に書かれた『越後軍記』では、天文二十一年(一五五二)正月十五日、二十三歳の謙信が群臣を集め、毘沙門天に「自分は天下の乱逆を鎮め、四海一統平均したいと考えています。もしこの願いがかなわなければ、速やかに病死させて下さい」と祈り、魚肉、色欲を断ったと記す。そして多くの史書がこれに同調し、不犯の理由を「軍神への帰依」によるものと位置づけたため、この見方は広く浸透した。一応、文献にあることだから、根拠として申し分ないように思われるが、出所が後世の軍記というのがひっかかる。
より良質の史料に目を転ずればどうだろうか。弘治元年(一五五五)冬、謙信は大徳寺の門を叩いて、「宗心」の法号とともに「三帰五戒(さんきごかい)」を授かった。五戒とは、僧の修行者が授かるもので、不殺生(殺さず)・不偸盗(奪わず)・不邪淫(犯さず)・不妄語(騙さず)・不飲酒(飲酒せず)の誓いをいう。
だが、謙信は大国の大名だった。しかも勇猛な武辺者で、虚言や殺生と無縁ではいられなかった。遺品「馬上盃」や辞世「一期栄華一杯酒」からも窺うかがえるように酒を愛した。晩年には北陸地方で領地を切り取っており、「不邪淫」以外は明らかに全滅である。いずれも拡大解釈で乗り切ったとの言い訳が可能かも知れないが、それなら「不邪淫」も拡大解釈してしまえばよかったのではなかろうか。
受戒後の謙信は、「宗心」と法号を称すると国政から遠ざかり、出奔したことがある。が、結局は祖国の安否が気になり、法号を捨て、大名に戻った。私的な心情(信仰)よりも公的な役割(政治)を重視したのである。信仰は何も絶対の価値観ではなかった。
性的に不能だった説
このようにふたつとも「生涯不犯」を積極的に解明する力を持たない。
では「性的不能説」はどうだろうか。肉体的に性交渉が不可能だったという見方である。裏付けとなる史料には乏しいが、ありえなくもない。だが、この説には落とし穴がある。なぜ、周囲の人々はそんな謙信を当主に推したのかという問題である。
実子をなしえない若者に一国の未来を託すなど好ましい話ではあるまい。当主が妻子を持てないなど、戦国期には致命的な欠点である。それなのに晴景を降ろして、わざわざ不能の弟を新たに当主に据えるなど、不合理ではなかろうか。