経済アナリスト・森永卓郎さんは20代をどう生きたか?【1/2】
1月28日に、ステージ4の膵臓(すいぞう)がんで亡くなった経済アナリストの森永卓郎さん。生前、ファッション誌「street jack」(休刊)の企画で、若かりし頃を語っていただいていた。(2016年1月配信記事を再配信)
■理数系から経済学部へ、「不純な動機でした(笑)」
早くから格差社会の到来を予見し、難解に思われがちな政治・経済の話題を生活者の目線に立った視点で解説してくれる森永卓郎さん。その一方では、2万台を超えるミニカーやコカ・コーラの空き缶などを集めた博物館「B宝館」を埼玉県所沢市に開館したほどのコレクターでもある。さて、そんな「モリタク」さんの20代とは…?
──東大教養学部理科二類に現役で合格。もともとは理系志望だったんでしょうか?
「医学部の試験にことごとく落ちたんです。それで神様が"コイツは医者にしちゃダメだ"と言ってるに違いないと(笑)。じゃあ、物理化学を勉強しようと思って。でも、東大に入学したのと同時に教授から『原子核の周りを電子が回ってる構造図なんてウソだ』と言われましてね。実は霧のように分布してる電子の、原子核の位置における確率密度が複素数というのが許せなくて…そこを超えなきゃ物理の世界には入っていけないんですけど、若いしケツが青いものだから頑として複素数は受け入れられない。で、目標を失って学内をうろついてたら文科二類のヤツらが女のコたちと青春を謳歌してるじゃないですか? それを見たら腹が立ってきて、『そうだ経済学部に行こう!』と。実に不純な動機でした(笑)」
──東大は2年の前期終了時に各学部へ。理科二類は理系学部しか選べないため、経済学部には行かれません。
「当時、理系から経済に移るのがかなり難しくて、千何百人中、定員が3名だったんです。だから"進学振り分け"を控えた2年の春学期の試験だけ猛勉強しました。あの時、複素数を受け入れられてたら今ごろ真面目な技術者になっていたかもな〜と」
──そもそも経済の勉強に興味は?
「慶應の経済学部も受けたり、あと早稲田の理工学部も受けて。とにかく、進路に迷ってましたね。受ける学部に節操がないものだから、高校の先生も『お前はもう少し人生をマジメに考えろ!』って(笑)」
──経済学部では、どんな勉強を?
「管理会計のゼミでしたが、何をやってもいいと言ってくださる先生で。私のゼミ論は『エネルギー需給の長期予測調査』。当時は第二次石油危機があって、あと30年で石油がなくなると。それでデータをもとに近々、世界恐慌になると結論づけて、その時、いちばん影響を受けないと自分が予測した日本専売公社に就職するんです(笑)」
──学生時代、恋愛の方は? 何でも、積極的に交際を申し込まれていたそうで。
「フラれてばかりでした。教養学部の時はクラスに4人。経済学部も全体で4〜5人しか女のコがいなかったですし。クラスに美人がいたんですけど、その子は桁違いに頭がよかったんです。東大って20〜30人にひとり、とてつもなく頭がいい学生がいて、彼女もあっという間にドイツ語を発音まで完璧にマスターしたくらい頭がよかった」
──森永さんもある種、すべり止めで東大に入るくらい頭がよかったわけですよね。
「私は要領がよかっただけ。勉強のやり方が人と違って…東大のように4択問題の場合、問題を作る人は正解から不正解を発想するんですね。馬が正解なら、まず似たようなひっかけでロバ。次は真逆のもの。十二支で馬の反対になるネズミとか。あとは馬から連想して馬鹿…で、シカとか。この4択を見て、まず似たようなもの2つ(馬とロバ)に注目する。そこから逆算して答えを当ててた。過去のありとあらゆる問題をやりながら訓練していくと、ある時パッと見ただけでわかるようになりました」
──就職した後も女性にアタックを?
「連戦連敗だった学生時代を含めると合計100人にフラれ。102人目が今の奥さん。何にせよ落ち込まない性格なんですよ」