体操、マラソン、フィギュアスケート…女子アスリートにとって「生理」は敵だった!?
摂食障害になった女性たちとの30年余りの交流の軌跡が話題に!
たとえば、マラソンの有森裕子は現役時代、ゴール後に彼女を抱きしめた母親が「こんなに瘦せていないとダメなら、もう走るのはやめてほしい」と嘆くほど、体を絞り込んでいました。ランナーとしても努力型で、粘り強く挑戦し続けたことが五輪での連続メダルにつながり、
「初めて自分で自分をほめたいと思います」
という名言を生むわけです。が、その過程で挫折し、摂食障害になって、違う人生を歩んでいた可能性も否定はできないでしょう。
こうした成功にしても、クリスティのような悲劇にしても、スポーツの世界ではその振り幅がより激しい気がします。そこには、女性がスポーツを極めようとすること自体、かなり無理のあることだということも関係しているようです。
『スポーツ選手の摂食障害』(NATA編)(註2)には、原始以来の男女による役割分担がスポーツへの向き不向きにつながっているとの指摘があります。すなわち、男性は外に出て「狩り」を、女性は中にいて「蓄え」を、それぞれ担ってきたのだと。そして、スポーツはもともと「狩り」が好きな男性向きに生まれたものだから「蓄え」が得意な女性には合わないというわけです。
そのあたりを象徴するのが「生理」の存在です。女性が体脂肪を減らしすぎたり、激しい運動をしすぎると、停止するようになっていて、男性にはもちろん、そういうことはありません。
そこで思い出されるのが、自著『ドキュメント摂食障害』である婦人科医を取材したときのことです。五輪選手団のチームドクターも務めたこの人は、一部競技の女子アスリートが身を削るかのようにして目指す体型について「本来、ふくよかで、正常に生理があって、という女性の機能を殺している」ものとしながらも、こう言いました。
「でも、うがった見方をすれば、激しいトレーニングをしている体は妊娠には向かないわけでね。防御本能として生理機能を切り捨てているともいえる。運動をするための合目的性として、月経がなくなるわけですよ。もっとも、それは女性であることの根本原則には反しているんですが」
これには正直、目からウロコが落ちました。生物として、女性としての原則には反していても、人間として、アスリートとしての目的には合っているわけですから。生理がむしろ「敵」となる世界も存在するのです。
(註1)『魂まで奪われた少女たち―女子体操とフィギュアスケートの真実』ジョーン・ライアン(時事通信社)
(註2)『スポーツ選手の摂食障害』NATA(全米アスレチックトレーナー協会)編(大修館書店)
(つづき……。※『瘦せ姫 生きづらさの果てに』本文抜粋)
【著者プロフィール】
エフ=宝泉薫(えふ=ほうせん・かおる)
1964年生まれ。早稲田大学第一文学部除籍後、ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』発行人を経て『週刊明星』などに執筆する。また健康雑誌『FYTTE』で女性のダイエット、摂食障害に関する企画、取材に取り組み、1995年に『ドキュメント摂食障害—明日の私を見つめて』(時事通信社・加藤秀樹名義)を出版。2007年からSNSでの執筆も開始し、現在、ブログ『痩せ姫の光と影』(http://ameblo.jp/fuji507/)などを更新中。