日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~ 室町幕府第六代将軍・足利義教を斬り伏せた男
日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~
この時の行秀に関する史料は残されていませんが、この噂はもちろん知っていたでしょうし、主君の赤松家の所領が没収され、討伐を受けるということは、自身に直結してくる死活問題として捉えていたことは間違いないでしょう。
当主の満祐は、背丈が低く「三尺(≒90cm)入道」と世人に嘲笑されていた僻みのためか、その気性は激しく常に傲岸不遜でした。しかし、この時ばかりは、さすがに追い込まれていたようです。
そこで満祐は「狂乱した」ということにして隠居し、老臣の富田性有(しょうゆう)入道の屋敷に療養と称して謹慎しました。これは赤松家の重臣たちによって決定された、義教の怒りを鎮めるための緊急措置だったと言われています。もしかすると、満祐の隠居を決定した赤松家の重臣たちの合議の間に、重臣の一人である行秀もいたかもしれません。こうして一時的に義教の目をごまかせた赤松家ですが、決断の時は迫っていました。
そして時は、嘉吉元年(1441年)6月24日を迎えます―――。
この年に起きた「結城合戦」に勝利を収めた上機嫌の義教を戦勝祝いと称して呼び出しました。この時「たくさん生まれた鴨の子が泳ぐ姿が面白いので」と言って招いたとも言われています。この日は21日から降り続く雨に、風が加わり、この時期だというのに(新暦だと7月12日)肌寒い天気だったそうです。
赤松家の屋敷は「西洞院以西、冷泉以南、二条以北」にあったといいます。現在の京都市中京区槌屋町(つちやちょう)の一体であり、二条城の東の堀川通を挟んだ場所に当たります。
行秀は赤松邸で将軍の到着を待っていました。この時すでに、将軍を弑逆する計画はきちんと練り上げられていたことでしょう。
義教が赤松邸に到着したのは申の刻(午後4時頃)だったといいます。義教のお供には御相伴衆(おしょうばんしゅう)と呼ばれる諸大名は管領の細川持之や侍所の山名持豊(後の宗全)など数名であり、さらに公家の正親町三条実雅(おおぎまちさんじょう・さねまさ)などがいました。いつもよりは少ないお供だったそうです。
義教をもてなす赤松家の主人は、赤松教康(のりやす)でした。父の満祐は表面的には「狂乱」となっており、老臣の富田の屋敷に謹慎していたためです。
屋敷に入った義教は、御座の間の正面に座し、その隣には実雅が座りました。そして、次の上壇の間には近習衆が座り、下の間に諸大名が列座し、祝宴が始まりました。
この時、行秀は宴の席にはいません。行秀がいたのは、御座の間の背後の襖(ふすま)の裏。それも宴の場には似つかわしくない甲冑で身を固めていました。
間もなくすると、酒宴が始まりました。
「いよいよじゃ…」
大きな盃になみなみと注がれた酒が1回、2回、3回と諸大名の間を廻ります。その間、庭に設えられた能舞台では赤松家がひいきにしている観世の能楽師によって猿楽が演じられています。
そして、酉の刻(午後6時頃)を迎え、京に夕やみが迫っていました。酒盃は5杯目が廻され、猿楽は3番目の『鵜飼』を演じられています。
すると突然、屋敷の中で「ドドドドッ」と太鼓を鳴らすような轟音が響き渡りました。
「何事ぞ!」
宴のじゃまをする物音に腹を立てた義教が周囲の者に尋ねました。
「雷鳴にございましょう」
隣席の実雅が答えました。3日前から雨が降っており、翌日には雷雨となったような天気だったため、実雅が雷鳴だと思ったのも仕方がないことでした。
しかし、これは赤松家中の将軍暗殺の合図だったのです。
「よし!門は閉まったか…!?」
行秀が小声で周囲の者たちに確認をとりました。
実雅が雷鳴と勘違いしたのは、実は馬が一斉に放たれた音でした。そして、馬が赤松邸を出ると「それ!門を閉めよ!」と表門の閂(かんぬき)は下ろされ、義教の逃走手段の馬を奪い、逃走経路の表門は閉ざされました。
閉門を確認した行秀は、目の前の襖を勢いよく引き開けました。周囲の襖も一斉に開かれ、行秀をはじめとした甲冑を身にまとった武士が広間に踊り入りました。
上壇の間の背後の襖から突入した行秀の眼前には、主君を貶めようとする将軍がいました。行秀の脇の2人の武士が義教の両肩に取りついて畳に押し付け、身動きを封じました。
そして――――
「悪御所め!覚悟せい!」