【京都国際初栄冠】甲子園に「韓国」の学校が?戦前には「朝鮮」「台湾」「満洲」代表出場の歴史
「日本軍」はなぜ世界から尊敬されているのか
今年の夏の甲子園で、京都国際高校(京都)が春夏通じて初の栄冠に輝いた。決勝では関東一高(東東京)と延長戦にもつれ込む激闘を制しての優勝だった。京都国際高校は在日韓国人向けの民族学校をルーツに持ち、校歌も韓国語である。この事実に「外国」のチームが日本の大会に出ているような違和感を覚えた人もいるかもしれない。しかし、そう考えるのは視野が狭い。実は戦前の甲子園には、「朝鮮」「台湾」「満洲」地域の代表校も出場していた歴史がある。本稿では『「日本軍」はなぜ世界から尊敬されているのか』(著:熊谷充晃)から抜粋・編集し、知られざる甲子園の歴史を紐解いていく。(2017年8月23日に配信した記事を改題の上再配信)
■日本の夏を彩る風物詩。「甲子園」その戦前の風景
今年も野球ファンにとって待ちに待った季節がやってきた。
“夏の甲子園”の愛称で親しまれる全国高等学校野球大会は、今回で99回目を迎える、大正時代から続く国内屈指の長寿を誇る一大イベントでもある。
現在では各都道府県の予選を勝ち抜いた1校が、“おらが街の代表”として日本一を決めるシステムになっている(北海道と東京都のみ2校、記念大会を除く)。しかし今ほど高等学校数が多くなかった時代は、各地方ブロックから1校という、“春のセンバツ”と同じような形で出場校が決められていた。
その“地方”には、現在の日本では実現しえない地域も存在していた。それが「朝鮮」「台湾」「満洲」だ。
戦前日本の領土には朝鮮半島や台湾が含まれていた。文化や風習に加えて行政システムの違いはあるにせよ、これらの地域は当時、関東地方や関西地方などといった地域区分と同じく、「朝鮮地方」「台湾地方」と呼ぶべき地域でもあった。
ただし「満洲」だけは異質で、日本領ではなく友好国だったから、それを一地方と同列に扱っているのは無理があったといえる。「満洲は日本の属国か傀儡国家だった」と指摘するうえでの証拠とされても仕方ない面はある。
これら3“地方”は、日本本土からの移入文化として野球が浸透していた。
そして朝鮮と満洲は1921年の第7回大会で“デビュー”している。このときの予選参加校数は全国で207に過ぎない。2年遅れて台湾からも代表校が送られるようになった。
それから戦争により大会が中止されるまでの18大会、1940年の第26回大会まで3“地方”から代表が送られ続けている。このときの予選参加校数は617だった。
余談だが、沖縄県勢初の甲子園出場は1958年の第40回大会まで待たねばならない。記念大会で「1都道府県1校」とされ、まだアメリカが占領していた“オキナワ”からも代表が送られることになり、選手団はパスポートを持って参加している。
話を戻そう。
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