【京都国際初栄冠】甲子園に「韓国」の学校が?戦前には「朝鮮」「台湾」「満洲」代表出場の歴史
「日本軍」はなぜ世界から尊敬されているのか
■大連商業は甲子園ベスト4を経験、嘉義農林は準優勝を果たす
第7回大会に出場した大連商業(満洲)は何とベスト4に進出した。釜山商業(朝鮮)もベスト8だ。後者が負けた相手は、その年の優勝校だった。一方、第9回大会で初登場した台湾。台北一中は惜しくも初戦(1回戦シードで2回戦から)で敗退した。
当時の3“地方”は本土からの移住者も多く、朝鮮人や台湾人(当時は日本人だが)などといった現地人と日本人の混成チームが多かった。しかし実力的に本土と大きな開きがあったわけではなく、通算成績で台湾と満洲は3割7分以上、朝鮮も2割8分以上という記録を残している。ザックリいえば長崎県や石川県、秋田県などと同等レベルだ。
決して強豪ひしめく地域ではなかったものの、語り継がれる偉業を成し遂げた学校もあった。それが1931年の第17回大会に参加した台湾の嘉義農林で、決勝戦まで進み準優勝を果たしている。
この嘉義農林は、後年プロ野球の巨人軍に入団して以降20年で3球団を渡り歩き、強肩と俊足から「人間機関車」と呼ばれた、1995年に野球殿堂入りをした呉昌征外野手を輩出している。
※『「日本軍」はなぜ世界から尊敬されているのか』(著:熊谷充晃 )より抜粋・編集
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