田中角栄と裏日本。表日本との「格差」を生んだ豪雪地域=新潟という土地が角栄を生み出した
角栄とその時代 その2:裏日本
怨念の原点=《表日本》に収奪された故郷
田中角栄は、先の戦争に征っている。しかし、戦争から「無事」に生還している。自伝を含めた関連書籍をすべて当たれば、角栄の言葉からは先の戦争における「死の匂い」がまったくしない。これは後に記すが、「戦争ごときで死んでたまるか」という意志のような思いすら感じるはずである。
高等小学校卒業の角栄が、皮肉にも、夏目漱石などの「岩波書店」文化の洗礼を受け、「自我と社会」の問題に煩悶し、戦死した同世代の旧制高校、帝国大学生の「学徒出陣」組よりも「個人主義」的で、「私(自我)」が「公(戦時体制)」より先に《確固》としてあったことは特筆すべきことである。つまり、社会(公)とは、法のもとに、私(個人)のエゴのぶつかり合いと折り合いによって「作られる(作為)」というヨーロッパ近代思想の「核」を、学歴が無かった角栄自身が「皮膚感覚」で持っていたことである。
また戦後、太平洋戦争の敗戦をどう位置付けるかで発展した戦後デモクラシーの思想的柱となった丸山眞男(1914-96 *戦後民主主義の代表的知識人でオピニオン・リーダー。アカデミズムとジャーナリズムをつないだ政治学者)の批判の中で出てくる「あるべき市民(=主体的市民)」像こそ、すでに戦前に(!)「自分の頭で考え、社会で実践した」角栄と重なることがなんとも「皮肉」である。
しかし、逆に言えば、角栄と「戦後民主主義」は地下水脈で繋がっていた! いや、その「水源」こそが田中角栄を育んだ「《裏日本》の土地=民衆の怨念」と捉えるのが平野貞夫氏である。
明治時代の「自由民権運動」が盛んな土佐清水市で生まれ、吉田茂・林譲治から薫陶を受けた平野氏はこう述べる。
平野氏「角さんは、《裏日本》で生まれ育ったこと。《表日本》との『格差』を生んだ豪雪地域=新潟という土地が角栄を生み出したとも言えるのでないでしょうか。角栄の政治、『日本列島改造論』とは、この『格差解消』のためにあったのです。日の目を見ない《裏日本》に《政治の光》を当てること、これが角栄の使命だったと思います」
《表日本》、《裏日本》の定義を、地理的に見れば、表とは、太平洋側(京浜・阪神などのベルト工業地帯)であり、裏とは、日本海側(表日本の発展に寄与すべく、ヒト・モノ・カネが、“原資”として簒奪された地域)のことを意味する。
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