北部九州勢力のアキレス腱、地勢上の弱点とは?
シリーズ『ヤマト建国は地形で解ける』⑤
北部九州支配の要、日田
興味深いのは、ヤマトに纒向遺跡が誕生した時代とほぼ並行して、日田盆地の北側の高台に、政治と宗教に特化された環濠(あるいは環壕)集落が出現していて( 小迫辻原(おざこつじばる)遺跡)、纒向の盛衰とほぼ重なっていること、遺跡から畿内と山陰系の土器が出土していたことだ。
ヤマト政権は、日田を奪っていたようなのだ。この事実は無視できないし、ヤマト建国の目的や過程が、日田から見えてくるのではあるまいか。
ちなみに、日田に楔を打ち込むことで、北部九州は身動きがとれなくなることは、戦略家ならみな分かっていたようだ。
近世に至っても、徳川幕府は北部九州の地政学を良く心得ていて、日田を天領(幕府直轄領)にしている。
「東の政権」は、日田を必要としたのだ。
そして、弥生時代後期、北部九州の諸勢力は、自身の弱みとヤマトの強みを知っていたからこそ、鉄を独占しようと考えたのだろう。
北部九州は、「積極的にヤマトを締め上げる策」に出たようなのだ。ここで出雲と吉備が鍵を握ってくる。
シリーズ『ヤマト建国は地形で解ける』⑥に続く。
【『地形で読み解く古代史』より構成】
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