使うときは使う、天下人・豊臣秀吉の現金給付 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

BEST TiMES(ベストタイムズ) | KKベストセラーズ

使うときは使う、天下人・豊臣秀吉の現金給付

季節と時節でつづる戦国おりおり第421回

 そして賤ヶ岳の次にやって来るのが、徳川家康との対戦となった「小牧・長久手の戦い」である。

 天正十二年(一五八四)、織田信長の息子・信雄とタッグを組んだ家康を仕留めようと尾張に出動した秀吉は、10万の軍勢をもって家康と対峙した。

 途中、池田恒興の売り込みによって三河への遊撃軍侵攻を策したものの、家康に見抜かれてものの見事に撃破されるという痛恨の悪手もあったが、いくさの大略はお互いに相手の出方をうかがうにらめっこに終始している。

 このにらめっこは、八ヶ月にも及んだ。10万の軍勢を八ヶ月養うためには、米代108億円が必要になり、この他塩・味噌・副食物を考え合わせると120~130億円を都合しなければならなくなる。

 ここまで、まさに秀吉得意の大物量作戦の面目躍如、といったところだが、彼は天下統一の総仕上げにもう一つ、一大イベントを実施している。それが「小田原攻め」だ。

 天正十八年(一五九○)、関東に割拠する後北条氏を征伐するためのこの戦いに秀吉が動員した軍勢は、実に25万以上とされる。

 空前絶後の雲霞のような大軍が関東に出現したのである。四月から七月までの三ヶ月間にわたって行われた小田原城包囲戦で、秀吉は20万石の米を駿河に集積して糧食に充てている。

 また、これとは別に黄金一万枚を拠出して東海筋から人夫・馬・糧秣を徴募して、物資の運送を遅滞なく進める態勢を整えたのだ。

 米20万石に、黄金一万枚を換算上乗せすれば、約36万石となり、当時の上総国や下野国の一年間の生産高にほぼ該当する。

 これに加えて、石垣山にわずか三ヶ月という短期間で山城をこしらえてしまう(世に言う「石垣山一夜城」である)といったその経済的パワーには圧倒される他はない。

 秀吉はこれだけの資本投下をおこなう事によって、小田原後北条氏の抵抗を鎧袖一触し、まだ出来立てホヤホヤの政権を早く固めることに努めたわけである。

 秀吉の凄味は、これらの時期をほぼ通じて大坂城建造をも平行して進めている点だろう。たしかに戦況が予断を許さない時には若干の工事の中断やスピードダウンもあったのだが、それにしてもあの大城塞を築くために必要な資本量というのは莫大なものであり、秀吉権力の経済的な底力には呆れるばかりだ。

 その底力の理由には、まず第一に各国の金・銀山を直轄領として手中に収め、慶長三年(一五九八)には実に大判(小判十枚分)で金4399枚、銀9万3365枚を収納するに至った事が挙げられるだろう。

 「太閤秀吉公御出世より此かた、日本国々に金銀、山野にわきいで」(『太閤さま軍記のうち』)とあるような、空前の黄金バブルのおかげである。

 この豊富な金銀をバックに、秀吉は金座・銀座を設置して貨幣の鋳造(天正大判など)も始め、六百年ぶりに国産貨幣を造りだした。

 また、これと平行して、全国の港津の支配により国内商業を把握し、米相場や生糸相場をコントロールして利益を生むことも政権自らが行ったし、堺や博多という大商港を舞台にした南蛮貿易もまた秀吉政権を潤している。

 これらの、かつて類を見ない利益源の創設と確保とが、秀吉の特徴である大物量作戦を可能にした。

 そして、大物量作戦の実施によって、弓・鑓・鉄炮といった武器による戦争から、鍬・鋤・もっこといった土木事業による戦争へと、日本の戦争の主役を替えてしまう事にも成功したのであった。

 こうして、日本中の富を独り占めにして天下統一に役立てた観のある秀吉は、ややもすると湯水のように金を無駄遣いしたように見られがちだ。

 たしかに、伏見城や聚楽第といった贅沢三昧の豪邸を建てたり、北野の大茶会や醍醐の花見などの遊びの大イベントを挙行したり、はては前代未聞の「金賦り」を実施して、金五千枚・銀三万枚をばらまいたりと、まさしく「浪費王」の称号を贈りたいほどの見事な使いっぷりではある。

 しかし、彼には一方でこういう面もあった。

 「黄金あらため見申し候へば、包み候てをき候。砂金十まいほど御座候。何としたる仔細にて候や。秤目のなきさいかけ渡し、たしかにをき申し候に、すなかね十まいばかり、不審に存候。仔細段、よめによく〜尋ね、申し越し候べく候」

 聚楽第の金を検査して包んでおいたが、秤目の無い「才欠け砂金」を十枚ほど渡してあった筈なのに、それが無い。一体どうしたんだ。

 管理役の老女・よめによく尋ねて、どうしたのかを報告して来い、という内容の秀吉の手紙である。この手紙からは、御金蔵の中身を一々自身で確認し、少しの違算も見逃さない、倹約家・秀吉の素顔が見えて来るのではないだろうか。

 現在に至る「太閤人気」は、直接政権に対する「義務」を持たない庶民レベルでの人気であり、無責任なものでもありますが、当時すでに知識階級(武士階級以上)にも秀吉の危うさを指摘する声はあったのでしょう。

 この後秀吉は有名な金賦(かねくばり)をおこなって必死に知識階級の人気を回復しようとしますが、それでも秀吉批判の落書は無くならず、最後には「天下は天下の天下なり(中略)行く末めでたかるべき政道にあらず」という有名な落書が記録されます。

 『ベル・エポック』(逢坂みえこ)に「みんなを熱狂させる圧倒的な光」「その光がある日なくなってしまうのだ」「こわいほどみんな同時にそれを感じる」という独白文があります。

 この後に「たぶん出ている本人も」と続くのですが、秀吉も圧倒的な光で周囲を幻惑して上り詰めただけに、まさに痛いほど「光が無くなっていく自分」を感じていたのではないでしょうか。

 その焦りが、彼に残虐な処刑を実行させ、さらには朝鮮侵略に駆り立てていくのです。

KEYWORDS:

オススメ記事

橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


この著者の記事一覧