【4月21日は千利休の命日】利休死す
季節と時節でつづる戦国おりおり第422回
今から429年前の天正19年2月28日(現在の暦で1591年4月21日)、千利休死去。
「二月二十六日に召しにて、京都へ罷り登り、葭屋町の宅へ着き候」(『逢源斎覚書』)。
豊臣秀吉が堺に蟄居謹慎させていた千利休に対し、京へ出頭するよう命じたのが、天正19年(1591)2月26日です。
利休はこの2日後に切腹して果てる事となりますが、その間、利休の弟子の大名たちが利休を救出するという噂がたち、秀吉の命で上杉家の将士3000人が屋敷を包囲するという騒動となりました。
利休の死については諸説ありますが、小生としては利休が「売僧の頂上」と弾劾されたのも強弁ではなく、彼が茶道や金融を通じて諸大名に私的な人脈を築いていた事が、豊臣官僚たちを甚だしく刺激した結果だと考えていますが、それはそれとして、当時の庶民にとっては、天下人たる秀吉が、無位の「町人」に過ぎない利休相手にムキになっている事は理解に苦しむ出来事だったのは想像に難くありません。
利休が召喚命令を受けたちょうど同じ日、京では長谷川忠実という者が、都における落首を記録しています。
有名なのは、
「末世とは 別にはあらじ 木の下の さる関白を 見るにつけても」
というもので、木下藤吉郎=関白豊臣秀吉を「猿」と決めつけ、世も末だ、と断じているのは、利休失脚事件などを見ての、庶人の偽らざる感想でしょう。
もうひとつ、忠実が記録した中から。
「おしつけて 結えば結わるる 十らく(聚楽)の 都の内は 一らくもなし」
押しつけられてがんじがらめに縛り付けられた聚楽第(秀吉)体制の下、京には一つの楽も無い、という嘆きは、ネット規制、中国人ビザ緩和、ODA死守、東電賠償の国民負担と、どさくさ紛れに次々と政治家たちから押しつけられつつある今の我々の嘆きでもあります。
次に来るのは、豊臣家同様の政権の崩壊ではないでしょうか。
2日後に利休切腹
広島大学文学部日本史学研究室所蔵文書
長谷川忠実筆京都落首(「猪熊文書」特殊文書)
1591年(天正19)、長谷川実忠という人物が書きとめた京都における落首である。いずれも当時の庶民が、全国制覇を成し遂げた豊臣政権を痛烈に批判し皮肉ったものである。とりわけ秀吉が「木の下のさる関白」と呼ばれていたことなどは、当時の庶民が権力者 をどのように見ていたかを生々しく伝えており、世相を知るうえでも貴重な史料である。
「猪熊文書」とは、古文書・古典籍の蒐集家であった猪熊信男氏(1882~1963) が、京洛の古書店・競売会などにおいて入手した厖大な古文書群である。総数は1162点。内容も多岐にわたり、全国的に見て屈指の質・量を有する。
都に秀吉殿批判の落首有り、長谷川忠実が書写す。
法華経の 裏打ち紙の のり(法と糊をかけたる哉)過ぎて
おりおりめげば きゃう(京と経をかけたる哉)ぞ破るる
石普請 城こしらへも いらぬもの 安土小田原 見るにつけても
寺々の 夕べの鐘の 聲聞けば 寺領とられて 何としやうや
ちはやふる 神も敷地も おとされて 思ひのほかに 十穀を絶つ
村々に 乞食の種も 尽きずまじ 搾り取らるる公状の
米夢の夜の なにとかせむる公状を 明日をも知らぬ 露の命に
よしやたゝ 今年はかくも 過ぎぬべし 又こん春は 行方知らずや
末世とは 別にはあらじ 木の下の さる関白を 見るに付けても
おしつけて ゆへばゆわるる 十らく(聚落をかけたる哉)の
みやこの内は 一らくもなし
十分になれば こぼるる世の中を 御存知なきは 運の末かな
天正十九年二月廿六日
京都に於いて落首
長谷河忠実 花押
京にての秀吉殿の評判、かくの如く也。
祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。娑羅雙樹(しゃらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)のことはりをあらはす。おごれる人も久しからず、只(ただ)春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。